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串から外された焼き鳥は何を失ったのか

あなたは焼き鳥を串から外す派ですか?外さない派ですか?

串から外す人は、きっと
「外しても味は変わらないし、他の人ともシェアして食べやすい」
という合理的な考え方の人なのだろうと思いますし、絶対に外さない人に理由を聞いてみると
「串で食べるのが焼き鳥のロマンでしょ」
みたいな答えが、なかなかの剣幕で返ってきて面白いです。

どちらも一理あるし「好み」の問題なので、各自がなるべく楽しく食べられる方法を選べばいいと思います。これは思想であり根源的な生き方に関わる問題なので妥協は難しいだろうなと思います。

僕がこの話で面白いと思ったのは、串から外した瞬間に失われる何かがあるという点です。その「何か」というやつ、「人によっては」という条件付き。なんてナイーブなのでしょう。


僕は1本のドキュメンタリー番組で人生のレールを急旋回したのですが、そのキッカケとなった番組を作った人に僕なりに書いた原稿を見ていただいたところ、

「情報の羅列になっている。ストーリーは情報と情報の間に宿るんだよ」

という言葉をいただいたことがあります。以来、この言葉は月が地球の周りを回るように、僕の頭の周りをぐるぐると回っています。


せまい業界の話で恐縮なのですが、「情報番組的コンテンツ」と「ドキュメンタリー的コンテンツ」が二項対立で語られることがあります。どちらにも面白さがあるのですが、それぞれの制作者の間には、なんとなく微妙な空気が流れている。ずばり言えばあまり仲がよくない、そんな印象を僕は抱いています。

これまた僕の主観ですが、ドキュメンタリー的コンテンツの方が「作品」と見られがちで「自由」なのに対して、情報番組的コンテンツの方が大衆ウケはよくて、いわゆる「数字」が取れる傾向があります。そのあたりにすれ違いの根っこがあるのかもしれません。信じる神様が違うようなものです。

こういう話は映像の世界に限らず、きっと雑誌や飲食、ファッション、あるいはアカデミックな世界にもあるのではないでしょうか。


「情報番組的コンテンツ」とは何か。一言でいえば「○○のポイントは3つ!」というようなコンテンツだと思っています。

「3つのポイント」はものの喩えです。4つの場合もあるし、巧妙に隠していることもあります。肝心なのは情報そのものが山場だということです。

3つの情報の価値はだいたい同じで、どの順番でプレゼンテーションしても問題ありません。せいぜい、いちばん意外なものを最後に持ってきてクイズにするくらいでしょうか。

「プレゼンされる情報の順番が変わっても価値が変わらない」というのが、そのコンテンツが情報的であることのリトマス試験紙になるかもしれません。串から外された焼き鳥のようなものです。


それに対して、ドキュメンタリー的コンテンツでは、そこで提供されている「情報」ではなくて、情報と情報の順番や間に大事なものが潜んでいるコンテンツと言えるかもしれません。

ちょうど、先日見てきた西川美和監督の映画『素晴らしき世界』もそんな感じでした。

『素晴らしき世界』のあらすじとしての情報だけを書くと、

「元殺人犯の男が刑務所から出るも、社会生活には様々な壁があり苦戦する。しかし、少しずつ理解者が現れてゆく話」

です。でも、これだと映画の大事な部分・面白い部分がごっそり落ちてしまう感じがします。まるで、串から外したことで焼き鳥から何かが失われてしまったのとすごく似ているなぁと感じました。


少し前ですが、Netflixなどの普及にともなって、早送りで映画を見るスタイルが一般的になってきたという記事が話題になりました。

コンテンツを速く見るという観点だと、情報番組的コンテンツの方が圧倒的に素早く視聴できます。「3つのポイント」だけ見てしまえば、ほとんど十分だからです。

この視聴スタイルが一般化されたことの意味について、何億円もかけた映画やアニメを作ったものも、情報番組的に消費されているんだなと僕は感じました。

最近、ビジネス本なんかでも太字が多用され、そこだけ読めば意味が分かるように書かれていることが増たように感じます。章末に「まとめ」が箇条書きでまとめられていることもあります。これも同じような需要の表れではないでしょうか。

「ひとことで言えば、この章で言いたかったのはコレ」だけ知れればよいし、どこからでも味わえる。
速くて、便利で、合理的。実に串から外された焼き鳥的です。

では、串から焼き鳥を外した時に失われてしまったナイーブな何かとは何か。あるいは、それが「物語の芽」みたいなものなのかもしれません。

とはいえ、どのように楽しむかについては、どこまでも個人の好みです。
だって、人生の時間は有限だし、その人だけのものだからです。

早送りで見るかどうか。あるいは、焼き鳥を外すか否か。
こうした行動の分水嶺には、とりわけ文化と消費のあり方が凝縮されていて面白いなぁと個人的には思います。

どうでもいいですが、バラされた「ねぎま」は果たして「ねぎま」と呼べるのでしょうか。やはり「ねぎま」は「間」の大事な食べ物なのかもしれません。

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