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もういちど行きたくなる街にあるもの

なぜかもういちど行きたくなる街って、ありませんか?

「有馬温泉もいいよ!」とどんなに言われても、城崎が好きすぎて10回近く訪れてしまう。海外なら香港。深圳や広州へ行く時もわざわざ香港入りし電車で向かってしまう。
 一方で、どんなに美しい場所でも、「ここは一回でいいかな」と思ってしまう街もあります。その差って何なのだろう。

夏がやってくると恋しくなるのが郡上八幡。今夏も少しだけ寄り道して、この街を訪れた。不思議なところは、ここで生まれたわけでも育ったわけでもないのに、なぜか懐かしくなること。
たとえば、うきわを持って川へと走る少年。

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 彼の姿に「平和だなぁ」「水が気持ちよさそう」と思いながら、心の中にひとつの景色が思い浮かぶ。弟と泥だらけになるまで遊び、「こんなに汚して!」とばあちゃん怒られた自分の中の「いつかのなつやすみ」の風景だ。

「ぽーー」という豆腐売りの笛の音まで鮮明に思い出される。怒られてなお、次の日にはまた遊びにいきたくてウズウズした「あの疼き」が思い出される。

 一方で、街ごと世界遺産になるような場所でも、外国人観光客があふれ、歩くのも一苦労という場所では、なかなか“おもいでスイッチ”に出会えない。金魚すくいや射的は、稼げるお土産屋さんになってしまうし、街の中でかくれんぼをやっている子どももいない。

 “おもいでスイッチ”は、その土地の「日常」の中にしかないのかもしれない。その土地の日常の中に、私の「いつかの日常」が重なった時、まるでタイムスリップするかのようにふっと記憶がよみがえる。

過去の自分に少しの間もどることは、今の自分が何者か、いま僕はどんな世界を生きているのかを教えてくれる。たとえば、もう僕を叱ってくれたばあちゃんがいないことだったり、濡れることをためらい川にも入れない“退屈な大人”になってしまったことだったり。

普段は気にもとめない事実は、「これからどう生きるか」を考えるヒントになる。

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