文字を使わないという選択。

 文字は音を物質化して、留めておくための一種の道具に過ぎない。

 授業中に恩師が発したその言葉は、私の価値観を変え、自信をもたらしてくれた。

 実は私、ちゃんと本を読むようになったのが、大学に入ってからだった。それまでは文字を読むことが苦手で、問題文を理解することも難しかった。そのため、学校の成績は上がらず、友人たちが話していた話題の本にも、ついていけなかった。高校に入ってライトノベルを少し読むようになったが、内容が頭に入ってこなかった。

 私たちは文字や数字で動いている。紙からスマホに媒体が変わっても、それは変わらない。だから現代日本では、文字が苦手だと、そのまま社会についていけない劣等生の烙印を押されがちだ。しかも、成績で比べられるから、自分自身にその烙印を押してしまい、苦しむことになる。昔は世界の文明を覚えるときにも、文字とセットで覚えたくらいだから、それは仕方がない。インダス文明は楔形文字とか、エジプト文明はヒエログリフとか。でも、文字を持ったから文明なのかと問われれば、首を傾げる人もいるだろう。

 『無文字社会の歴史‐西アフリカモシ族の事例を中心に‐』(2001)において、川田順造氏が言うように、「文字を持たなかった、あるいは今でも用いていない社会は世界に多い。言語は人類に普遍的に用いられるが、文字は少しも普遍的ではない。文字を実際に使う人の数ということを考慮に入れれば、大部分の人が文字を用いなかった社会の方が、人類の歴史の中では、はるかに多かったに違いない」(川田 2001p.3)。

日本の言葉だって、全部が文字になっているわけではない。W-Jオング氏が言うように、「ある方言が書くことと結びつくことによって、国民言語となる」(オング 1982p.221)だけだ。つまり、私たちが日頃何気なく文字にしている「東京方言」は、書く必要性に迫られた時に、国民の言語となったのだ。

文字は人間にとって、必ずしも必要な道具ではない。今も文字を使わない選択をしている人々がいる。それに、文字を持たなことが劣っていることとイコールではない。日本が文字を使って言葉を保存する国だから、その道具を大人から押し付けられたから、文字を選択しているだけだ。

 今はLINEのスタンプや写真、動画だって、伝えるための道具だ。もしかしたら、文字は日本では使われなくなり、スタンプや写真、動画で物事を記録し、保存し、管理していく時代が来るのかもしれない。

 だから、自分が今できないことがあったとしても、自分が劣等な存在だなんて、誰にも決められない。それは、この流動的な文化が押し付けた価値観に過ぎないのだから。

参照文献
W-Jオング
1982『声の文化と文字の文化』藤原書房。

川田順造
2001『無文字社会の歴史‐西アフリカモシ族の事例を中心に‐』岩波書店。

#思い込みが変わったこと

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