第3話 奇病

それから数日たって、咲の顔にはそばかすのようなものが出てきた。それは注視しなければ分からない程度のものだった。しかし、顔にそばかすが現れた次の日には足や腕にもそのそばかすは現れた。耳は遠く、目はかすみがちになった。肌は荒れ、髪の毛はよく抜けるようになった。咲も年頃だけあって毎日長い時間鏡を見るのだが、当の本人がそれらの症状を気にする様子はまったく見られなかった。むしろ自分の中に存在する者が成長している証と喜んでいたのだ。

 母親が警察に相談し、相手からの嫌がらせを注意してもらったところ例の封筒を見ることもなくなり、家族は一見幸せなときを過ごしていた。
だから咲きの事を以前よりも気に留めなくなった良広も、咲の変調には無頓着だった。まして最近世間で流行している奇病の初期症状と、咲の変調が一致しているなどとは思いもしなかったのである。
 
「何だ、咲。今日は学校休みか?」
私服の咲に話しかければ「うん。学級閉鎖、って言うか学校閉鎖」と軽い口調で答えが返ってきた。今の時期に学校閉鎖といえばインフルエンザが常であるが、今年全国で流行しているのは風邪とは似ても似つかない原因不明の奇病だった。
 咲がテレビをつければ、どの局でも奇病の報道を続けている。良広が気に入っていたニュース番組でも奇病が流行り出す前までは環境問題の特集を組んでいたが、今となっては奇病の特集に切り替わってしまっていた。連日ほとんど同じ報道内容のニュースに嫌気がさしたのか、咲はすぐにテレビをほったらかしにして自室へと戻っていった。良広が開いた新聞も似たようなものである。調査しても何ら進展がないため新しい情報がない。
 しかし今日は、昨日の夜に事態が悪転したため各誌がこの奇病に割いた欄は大きかった。
 ついに奇病で入院していた患者の一人が亡くなったのである。しかもその死に方があまりにも壮絶であったため、マスメディアは競って怪奇さを盛り上げている。
 気づいたときにはもう全国的な広がりを見せていた原因不明の病気。患者は全て女性。しかも患者たちの唯一の共通点が処女ということのみ。そのため当初原因は、未使用子宮にのみ感染する病原体の類だとされていた。
 そしてついに、一人目の犠牲者が出た。 
 死んだのは一人暮らしのOL。まだ二十五歳という若さだった。この女性の遺族は奇病の原因早期究明を願い、捜査に協力するため遺体の一部を調査資料として提供することに応じたようだが、遺体は女性が死亡した直後から急速に腐乱しているという。あるマスメディアにいたっては遺体の状況を「人の死と言い難き死」と表現するほどだった。
 
 亡くなった女性の名前は、鈴木麻美。
 アパートの二階に住んでいて、体調不良で職場を休んだ日の夕方突然発狂。下の住人が尋常でない様子に気づき、救急車を呼んだ。その頃には奇病は世間に認知されていたため、すぐに奇病患者が多く収容されている大学病院に搬送された。ただそのときにはもうほかの患者同様、肌には赤茶色の大きなしみが全身を覆い、精神的に病んでいたという。奇病患者は皆、若い女性とは思えないほど老け込んで呆けた老女のような姿で病院に運ばれてくるというが、この場合も全く右に倣ったような状況だったというわけである。
 しかしそんな患者たちが昨日に限って日が沈んでも誰一人眠らず、日中同様にベッドの上で笑っていた。そしてもう少しで十二時になろうとしていたとき突然鈴木麻美が一段と大声で笑い始め、病室を笑いながら駆け出したかと思うと窓を開けて自分から飛び降りた。関係者が慌てて外に集まって外灯の光の下に浮かび上がったものを見たとき、誰もがそれが人間の遺体であるということを認めたくはなかったという。腹は内側から裂け、皮が外に向かって反り返っており、最初にこの遺体に駆けつけた人いわく、初めから腐っていたのだそうだ。そんな一部始終を見ていた同室の女性は、入院してから初めて医師に対して語りかけ、こう言ったという。
「私も早くああなりたい」
医師は背筋に冷たいものを感じながらも、奇病患者との初めての会話を進めようと言葉を返したが、それきりいつものように彼女は笑うだけだったという。


この奇病の初期症状は、やはり普通の病とは違っていた。どれも患者を診てきた医師の憶測に過ぎないという声もあるが、まず部屋に一人でこもりきりになり、食事の際には肉しか食べなくなる。そして次第に体中に赤茶色の斑点が現れ、ついには発狂するのだという。発狂といっても暴れたりはせず、精神的にいかれてしまうのだそうだ。医師はこんな状況の人が周りにいたら注意してほしいと言いながらも、例外もあるので周りで決め付けたりはしないようにと話していた。
 
そもそもこれは本当に病気なのだろうか。新聞やニュース番組がもうすでに定説であるかのように報道している、細菌やウィルスによる「感染」なのか。もしかしたらもっと別な、誰も考え付かないようなものが存在しているのではないだろうか。良広の考察はいつもここで終わる。
 そうしていれば、いつかその存在に近づけるのではないか。そんなふうな思いを抱きながら、良広は冷めかけたコーヒーをすすった。
 ちょうどその時入った臨時ニュースで告げられた奇病による第二の犠牲者の存在を良広が知ったのは、翌日の新聞を読んでからだった。死亡したのは昨晩亡くなった鈴木麻美と同室の女性。「私も早くああなりたい」と医師に告げた女性だった。彼女が最後に口にした願いは叶えられたのである。
「お前も病院行ったほうがいいんじゃないのか?」
夕食時、父親が咲にそう切り出すと咲は口をとげて「何で?」と言い返し、キュウリを一枚口の中に放り込んで見せた。
「馬鹿は風邪ひかないって言うけどな」
「ムカツク。そんなことばっかり言って、本当に由美の家にでも行けば」
「由美ちゃんは女の子らしくて、いい子だよな。そんな妹が欲しかった」
懐かしさに浸りながら、良広はしみじみと答えた。
「変態」
いつもの二人のやり取りを、いい加減にしなさいと母親が苦笑混じりに止めると新聞をたたみながら父親は笑い事じゃないと不機嫌そうに兄妹をたしなめる。
「咲、お前のクラスの子はほとんど全員入院しているそうじゃないか。他人事じゃないんだから、もし少しでもおかしいと思ったらすぐに言うんだぞ」
父親は厳しい表情で家族の顔を見渡した。確かに自分の家だけを見て安心していたのは不謹慎だったと良広は反省した。しかし、そんな反省などでは足りないとでも言うかのように奇病の影は良広のすぐ近くまで忍び寄ってきていた。

 翌日の早朝、まだ夜が明けきらず冷え込んだ空の下に救急車のサイレンの音がけたたましく鳴り響き、良広とその両親はそのサイレンの音で目覚めた。この辺りでは最近奇病患者が多く出ているので、また誰かが近くで発狂したのかとサイレンの音の軌跡を頭の中の地図で辿った。
「由美ちゃんかしら」
母親が自分の子供を心配するような声を発した。
「見てくるよ」
 良広の足は踏み出すたびに速くなって、視線はとめどなく動いて赤い光を探していた。
 案の定、赤色灯をつけたまま、先ほどの救急車が由美の家の前に停まっていた。
 にわかに声が近くなり、玄関ドアのすりガラスに白い人影が映った。いつもは穏やかな原田夫婦の緊迫した声が、由美の名を呼んでいるが返事はない。その代わりときどき女のものらしき笑い声がするが、到底良広が知っている由美の声とは思えなかった。落ち着いた男性の声がしたかと思うとドアが大きく開かれ、救急隊員が担架で患者を運び出した。すぐ後ろから原田夫婦が続いた。その、玄関から救急車までのほんの短い時間、良広は担架の上に横たわる人物から目が放せなかった。
「ああ、空!ソラ!」
担架の上から突然大声が発せられたかと思うと、次には耳障りな笑い声が上がった。大口を開けて笑っているのが本当に由美なのか良広には分からなかった。腹には奇妙な膨らみがある。これが奇病なのかと衝撃を受け、良広は半ば腰が抜けていた。
「良広君」
「すまないが、家内を県立まで送り届けてもらえないか」
「はい、もちもんです」
「おばさん、うちの車で行きましょう」
良広は由美の母親の肩を抱えるようにして男性から引き離し、行ってくださいと小声で促した。その男性が乗り込むや否や救急車は再びサイレンを鳴らしながら走り去った。
「由美ちゃんは、きっと大丈夫ですよ」
 由美の母親はそこで座り込んでしまった。
「ごめんなさいね、良広君。あなたにまで迷惑かけて。本当に何の予兆もなかったのよ。昨日までは普通だったのに、どうして」
「今車を回してきますから、待っていてください」
 良広は出来る限り由美の母親に優しく接したが、それは裏を返せば良広自身の動揺を隠すためであった。家では日常が演じられていた。
「まだ詳しいことは分からないけど、奇病だと思う。原田のおばさんを病院まで送ってくるから、車貸して」
病院で由美の母親と一緒に、由美に付き添った父親を待つ。
「良広君、助かったよ。ありがとう」
「いいえ」
「由美も良広君のことを本当のお兄さんのように慕っていたから、きっと喜ぶと思うよ」
憔悴しきった由美の父親に、良広はやっと「はい」とだけ答えることが出来た。
「今まで、由美と仲良くしてくれてありがとう」
「そんな、これからだって―」
良広の言葉を塞ぐかのように、由美の父親は首を横に振った。
「例の奇病だそうだ。何故同じ家にいて気付いてやれなかったのか悔しいよ」
ふと、良広の脳裏に咲の姿が浮かんだ。そして良広は今の由美の父親の言葉を反芻しながら思う。もしかしたらこの娘のことを想い涙をこらえる父親の姿は、未来の自分を暗示しているのではないか、と。

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