第2話 父親

 その日の夜、咲の異常行動を知ることもなく、良広は両親と共にテーブルに着いた。その場の空気から、父親に例の封筒が見つかってしまったのだと察した。案の定、いつも食事が用意されているテーブルの上には例の封筒が入った箱が開いた状態で置かれていた。蛍光灯の白い光が間箱の内側の銀色のステンレスに反射して、まさに真実が白日の下に晒されていた。ついに見つかってしまったかという想いと共に、ようやく見つかったかという矛盾した想いが心のどこかでわだかまり、良広はどれだけ自分がこの秘密をプレッシャーとして抱えていたのか思い知らされた。そしてちらりと階段のほうに視線を送った後良広は父親に向き直った。
「父さんには悪かったと思ってる。母さんと共犯だと思ってもらってもかまわない。でも、咲に心配かけたくなかったんだ。そっとしておいてやりたかった」
 真剣な良広の隣では、母親が済まなそうにうなだれていた。父親は話し手である良広と目を合わせることはなくそんな母親を終始見続け、否、にらみ続けていた。良広が口をつぐめば水を打ったように静かになり、壁掛け時計の秒針の音がじれったそうに次の言葉をせかすのだった。しかし、次の言葉はなかなか誰も口にしない。母親は猫背をさらに丸めて、しきりに太ももの上で重ねた両手の指を蚕のように動かしていた。
「すみません。私は自分がしたことが恐ろしい。ただ、咲のためにこのことは黙っておいてほしいの」
 蚕が声を発したと母親の指先に気をとられていた良広は思ったが、その過細い声はようやく顔を父親に向けた母親の発したものであった。それを待っていたかのように今まで石像のように座っていた父親も、一つの大きなため息と共に「全くお前は」と言葉を発した。
声は控えめだったが、それでも怒気は隠しきれなかった。
「良広にも謝ったらどうだ。おれは、お前を信じてここまで来たのに裏切られた。お前はおれに何か不満でもあったのか。それとも、そういった血筋なのか」
「父さん」
 あまりの言いように思わず良広がたしなめる。
 確かに母方の家には、かつて結婚後に異性と関係を持つ者が多かったらしいがそれと母親の不倫を関係付けるのは飛躍し過ぎだ。良広が幼いときにも同じ話題で母方の親戚と両親との間でひどくもめて、両親と幼い良広、それに生まれたばかりの咲は東京にも程近い、と言ってもまだまだ田舎の現在の家に移り住んだ。良広はそう聞いていたが、詳しいことを聞こうとすると両親がそのたびに茶を濁すので詳しいところまでは分からなかった。妻のことを淫乱魔だと言われた父親が逆上して誰かに怪我を負わせ、その後駆け落ち同然で母方の実家を出てきたらしいがこれもどこまでが本当なのか怪しいところだ。
「これから、どうするんだよ」
 これ以上余計な話はいらないと言わんばかりに、良広は一番知りたいことを思い切って切り出した。離婚は有り得るのか。脅迫文にある多額の要求をどうするのか。母親が自分の落ち度を父親に知れることを心配して脅迫の一件を警察には届けていなかったので、これは被害届けを出すことが先決であろう。この箱いっぱいの封筒や、父親の会社への電話のことも報告してしまえば警察も無下にはしないだろう。どうやら父親もそう考えていたらしく、翌日母親は警察に相談しに行くこととなった。
「それで、咲にはどうする気?できれば言わないでほしいんだけど」
 良広のこの言葉に、会話が途切れた。
 今度は父親までもが眉間に縦皺を作って俯いてしまった。
「今回のことで離婚はしない。だから、咲にも言う必要はない」
 石像が言葉を言うように父親がゆっくりとそう言った。母親は夢から覚めたように顔を上げて良広と共に父親を見つめたが、再び怒気を盛り返した「だが」の一言に二人とも身を硬くした。
「今度また同じようなことがあれば、お前は一人でこの家から出て行け。その時は即離婚だ。良広も今度は隠したりしないように」
 寛大な父親に良広も母親同様感謝と約束を口にしたが、きっと自分はまた同じ過ちを繰り返すのだろうと良広は後ろめたかった。悪いことだと分かっていても、誰かを傷つけるとしても、良広は咲をかばうのだろうと。ともあれ良広はやっと安堵の息をつくことが出来たのだった。
 しかし良広の中では、父親が口走った「そういう血筋」が引っかかっていた。
 何故母親の実家から出てきたのか。「そういう血筋」だから実家にいられなかったのだろうか。理由はうやむやのままで釈然としないままだ。
 


 母方の姓は、千房という変わった姓だった。
 長崎にある旧家で、妙に外者を嫌って近いところで結婚する内縁的な家柄だった。もっとも良広は六歳までしか長崎の記憶はない。幼かった良広に、母は、千房は同じ苗字同士で結婚するのが普通だと言った。しかし自分の父親は千房ではなかった。それに同じ家族なのに自分の母親だけが家族の中では大森ではなかった。今考えれば結婚する前に子供が出来て、母親が嫁入りしたいというのを反対されていたため長い間良広の両親は入籍できない状態だったのだろう。
 それでもこちらに移り住んで籍も入れられたのは、咲が一歳にならないときのことであった。咲が生まれてから、何か尋常でない空気が千房家に漂っているのを、当時良広は幼いながら感じていた。だが子供が立ち入れない独特の雰囲気に気おされて、何があったのかは分からなかった。

 咲に何か問題でもあったのだろうか。そんなことを考えながら、良広は例の箱を元通りに戻した。
 台所でふとゴミ箱に目を落とすと、今日の弁当のおかずにと母親が今朝詰めていたポテトサラダが捨てられていた。弁当を持っていくのは父親と妹、母親の三人であるが、「咲か」と良広の脳裏にいち早く妹の名が浮かんだ。
「ああ、それ咲よ。今朝も残しのよ」
 母親もゴミ箱を覗き込んだ。
「ダイエットは中止したらしいけどな」
「でもしょっちゅうダイエットって言ってる子が、急にお肉ばかり食べ始めると心配じゃない」
 良広は昨日も牛丼と肉まんを咲に取られたことを思い出しながらも、「まあ運動部だし、食べ盛りだし」とありがちなことを口にした。
「そうよね、きっと」
 母親は笑って答えた。しかしその精一杯さを感じさせる笑みに急に不安になった良広は、思わず母親の背中に声をかけていた。
「何で、長崎から引っ越してきたんだっけ?」
 母親の顔がこわばった。
「どうしたの、急に」
「いや、別に。ちょっと気になっただけ。ほら、引っ越したのって咲が生まれてすぐだったから。」
 不意に黙り込んだ母親と対峙しているのが気まずくなった良広は、「まあ、いいんだけど」と言ってコップに水を注ぐ。つい先ほど収まったばかりの波風を立ててしまってはかなわない。そう思ってあせる自分がいることに良広は内心苦笑していた。
「咲には関係ないわ。どうしても親戚と馬が合わなかっただけだって、前も言ったでしょ」
 母親もまた、気まずかったのだろう。いつもの明るい声のトーンが落ちて、早口だった。それが母親が必死に自分に言い聞かせているようであり、咲が関係しているのだと暗に示すようでもあり、良広はますます母親の言動への信頼をなくしていた。どうせならもう一歩踏み込んだ内容の質問をしてみようかとも思ったが、母親がまたあの笑みで笑うので、良広はこの笑みに負けて次の質問を飲み込んだ。
 
 こんな家族の心配をよそに、咲の偏食ぶりは日を追うごとにひどくなっていった。ついに主食のご飯まで手をつけずに残そうとしたとき、母親が声を荒げた。
「いい加減にしなさい。体が持たないでしょ」
「もうお腹いっぱいなの」
 全く母親の言葉に耳を貸さず、咲は椅子から立ち上がってほとんど手をつけていない自分の食器を片付けようとしている。食器が重なるたびに咲の手元で鳴る音は、ガチャガチャと荒々しい。
「単品ダイエットなんて嘘なんだからね」
「ダイエットなんかずっと前にやめたんですう」
「じゃあ、どうして……」
 母親の語気の荒さが抜け、不安の色が滲んだことを良広は聞き逃さなかった。
「もお、うるさいなあ。たまに一緒に食べるとすぐにがみがみ言って」
「咲、母さんはお前のことを心配して言ってるんだから、そういう言い方止せよ」
 珍しく良広にたしなめられた咲は、重ねた食器をテーブルの上に残したまま自室へと逃げ込んだ。
「何よ、ムカツク。お兄ちゃんなんて、どうせお母さんの味方なんだから」
 咲が、そうでしょう?と語りかけるのは、自分の腹の中に宿る新しい命だった。何度母親の秘密を父親に告げ口してやろうかと思ったか分からない。自分の汚さを棚に上げて母親ぶるところが嫌いだった。いっそのこと、全て父親の知るところとなって母親を罵ってくれれば気が晴れるのにと咲は思った。しかし、もしそうして両親が離婚するということになれば困るのは咲き自身だ。だからいつも、後もう一歩のところで咲は思いとどまるのだ。一人では抱えるに大きすぎることも、お腹の子供と「二人」ならどんな苦難も乗り越えていける気がしていた。
「早く、大きくなってね」
 咲は腹を撫でた。普通の妊娠とは違って、腹が見て分かるほど大きくなることはなかった。膨らむというよりは腹が張っている状態に近い。ただ、咲が呼吸すれば腹の中の子供も呼吸し、咲が眠れば子供も共に眠るというような、息づいている、育っているというような確かな感覚があった。
 電気もつけない暗い自室で、今日も咲は一人喘いでいた。何もかもを忘れさせてくれる官能の快楽の中で、ただ誰が裏切ったとしても腹の中の子供だけは自分を裏切らないのだと信じていた。

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