いつか、また。

以前ボランティアをしていた社会福祉協議会から、ある若者に会ってほしいと頼まれた。まだ二十歳の若者だった。今まで引きこもっていたが、文章を書くことに興味があるらしいので、小説を書いている私にお鉢が回ってきた形だ。
 彼女はまだ二十歳になったばかりで、面会には彼女の母親も同席していた。第一印象は、生気が削げ落ちたような女性だった。その一方で、彼女の母親は、どこか嬉しそうだった。まずは彼女の話を聞くことになり、私は無駄な質問を避けるために、メモを取っていた。
しかし、話が進むにつれて、私は奇妙な感覚に襲われた。確かに彼女は違う話をしているのに、同じことを何度も反復してメモしている気がしたのだ。ふと、メモしたことを見返せば、彼女の話しにはある法則があることに気が付いた。彼女は自分を主語として話すとき、必ず、「られた」、「された」で終わるのだ。

「親戚に嫌われて、無理やり精神科に行かされた」
「警察まで呼ばれた」
「一度家を出たこともあったが、連れ戻された」

彼女はプロの作家になりたいと言った。初めて彼女の意思を聞いたので、少しだけ嬉しくなった。しかしすぐに彼女は、社会貢献なんてしたくないと、吐き捨てた。心がもやっとした。作家に限らず、社会貢献しない作品は、あるのだろうか。自己表現だけを目的として、社会に何の影響も与えたくないならば、何故プロの作家を目指すのか。疑問だった。
彼女は隣に座った母親に促される形で、不服そうな顔をしながら私に質問した。
「視点って、どうやって決めるんですか? 群像とか? 神の視点とか?」
私は目の前に用意された飴を一つ、机の上に置いて説明した。
「一つの視点からだと、これはレモン味の飴です。でも、群像的な表現だと、ある人物はレモン味の飴、またある人は黄色い飴というふうに、多角的になると思います」
私は彼女の問いに、十分に答えられていた自信はなかったが、ここで大きな反応を見せたのは、彼女ではなく彼女の母親の方だった。
「えー。すごい! 勉強になるね、みーちゃん!」
大声でそう言った母親は、両手を合わせて喜んだ。一方の彼女は、母親をにらんで舌打ちし、「外でそう呼ぶな」と言った。こんなやり取りが、数回続いた。質問をするのは彼女なのに、いつも反応するのは母親の方だった。彼女は相変わらず不貞腐れたような顔をして、反応しなかった。元々、質問の答えに興味がないという表情だ。
 話している内に、おそらく文章を書くことに興味があるのは、母親の方だと分かってきた。そして彼女が本当にやりたいのは文章の方ではなく、イラストの方だということも分かり始めた。彼女は、母親に感化されたのだ。そして連れてこられたのだ。そして私に会わされたのだ。まさに、「された」、「られた」だ。
 何故か、蝶の幼虫に寄生する蜂がいることを思い出した。幼虫は蝶になることもなく、蜂の餌になって死ぬ。蛹から飛び立つのは、美しい翅の蝶ではなく、気味の悪い黒い蜂たちだ。
 次第に、彼女ではなく、母親が会話に多く参加するようになった。彼女のあだ名なのか、しきりに彼女のことを「みーちゃん」と呼ぶ。
「みーちゃんは、頭がいいんです。いつもクイズ番組を見てて、すごく漢字が読めるんです」
私は、彼女の頭がいいというのは本当だろうと思えた。いくつかの会話の中で、文章表現を強調して言っていたから、自己顕示欲もあるのだろうとも、思った。しかし会話の主導権を母親が握ってしまった今になって、彼女との面会に、意味があるのかと疑問だった。
 自分の心の主導権は、誰かに渡してはいけないと、今の私なら言える。私も彼女と同じように精神科に入院歴があり、処方された薬なしでは日常生活が困難だ。しかし、私は治療のために、入院したのだ。けしてさせられたのではない。私には今の状況から抜け出して、また文章を書きたいという想いがあったからだ。自分が自分の人生を能動的に歩まなければ、残るのは後悔だけに違いない。
「時間です」
社会福祉協議会から、声がかかって、話し合いはお開きとなった。
「最後にいいですか?」
私は彼女に、真っすぐに言った。
「あなたには、想像力がありません」
彼女は一瞬、虚を突かれたような顔をしたが、そのまま母親と共に帰っていった。彼女と目が合ったのは、今回はこれが最初で最後だった。
 恨めばいいと思った。私の事を恨んで、それを糧にしてくれればいいと思った。そして、イラストでも文章でも、自分が本当にやりたいことを見つけてくれたら、きっと彼女は強くなれる気がした。
 だから、またいつか私は彼女と話がしたい。受動的だった過去を、能動的に語ることができるようになった彼女と、今度は二人で。

                                    〈了〉

#2000字のドラマ

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