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退屈とは何か?(『退屈の心理学』を読んで)

全四回の読書会を通じて『暇と退屈の倫理学』を取り上げてきた。
「暇倫」は哲学・倫理学的観点から「暇と退屈」を考える本である。要は社会派なのだ。方向性としては現代社会批判、資本主義批判といった側面が大きい。これは著者・國分功一郎氏の問題意識によるものだろう。「暇倫」以降の著作活動にも、この視点は引き継がれている。

では、結局「退屈」とは何だったのか?
『暇倫』ではパスカルやハイデガーを引用しつつ、退屈を「根本気分」として考えている。しかし実際、私の周りには「退屈しない派」の人は割といる。そこのところをもう少し掘り下げたい。

ということで、今回は『退屈の心理学』について考えてみよう。



なおあらかじめ予防線を貼っておくと、トピック同士のつながりが見えにくく読みづらかったので、割と誤読している可能性はある。ご了承願いたい。


退屈とは何か?

まず、退屈について昔の偉い人が色々と考えてきた歴史には、「実存主義」的な解釈と「精神分析」的な解釈がある、という話が出てくる。(『暇倫』は当然前者の解釈をベースにしている)
実存主義者たちは退屈を「意味の欠如」と考え、退屈にどう向き合うべきかという指標的なものを色々と提案してきた。一方の精神分析家たちは、「根源的な内的葛藤」と考えた(人は無意識的な欲求の正体がわからず不安を覚える。その欲求を抑えようとして退屈が生まれる)。
本書の「退屈観」はこれらをミックスした感じになっているが、それを考える前に「脳科学的な退屈」について確認しておきたい。

著者らの研究によると、退屈時に見られる脳活動に大きく関連するのは、「島皮質(島)」と「デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)」という二つのネットワークのリンクである。前者は身の回りの情報に注意を向けさせる機能があり、後者は注意を内面に向けさせる機能がある。真逆の活動に関わる部位だ。
人が退屈しているとき、二つのネットワークは反相関関係にあるという。一方の活動が高まるともう一方が低下する。この結果を受けて著者らは次のように解釈している。

このパターンは,連続する単調で興味をそそられない事象に没頭しようとして,失敗し続けていることを示しているのではないか
ジェームズ・ダンカート、ジョン・D・イーストウッド『退屈の心理学 人生を好転させる退屈学』
一川誠、神月謙一訳 ニュートンプレス P27


つまり、「退屈とは,満足を得られる活動に没頭したいのに,それができないときに生じる不快感である」(P29)ということだ。ここで重要なのは、退屈と「快感消失(楽しさや嬉しさを感じられない症状)」や「アパシー(何事にも無関心になる症状)」との違いである。退屈した人は無気力になるわけではなく、むしろ「没頭できるもの」を強く求める。
この違いは動物を用いた実験でも確認されている。刺激の少ない檻に入れられた黒ミンクは、あらゆる刺激(嫌悪や興味をひきやすい物体及びどちらでもない物体)に対して素早く反応したという実験だ。快感消失ならば面白そうな物体には反応しにくくなるし、アパシーであれば全ての物体に反応しにくくなる。しかし実際には全てに素早く反応した。ここから、「退屈は快感消失やアパシーではない」「動物も退屈する可能性」と言える。

退屈とは、没頭していないように感じられるという主観的な状態である。では「没頭」とは一体何なのか? 本書では「その人の心的能力が十分に利用されていないこと」とされている。(これは『暇倫』第二章の、人間は定住したから認知能力を持て余して退屈したという話と大体同じだ)
なぜ人間は「没頭」しなければならないのか? その理由について明確な答えは書かれていないが、認知能力が極限まで剥奪されるとどうなるのかという点については触れられている。悪名高い「感覚遮断実験」である。人間から完全に感覚を奪ってしまうと、思考できなくなったり幻覚を見たりする。また独房に監禁され最終的に自殺してしまった囚人の話も出てくる。何故かは分からないが、人間から「没頭」の可能性を奪うとヤベーのだ。そういうふうにできている。

だが、同じ環境でも「没頭しやすい人」もいれば、そうでない人もいる。その辺の違いは何なのか、ということが第二章に書かれている。


退屈しやすさとは? 外的要因と内的要因

退屈には、四つの外的要因及び、五つの内的要因が関係しているという(実際には「こういう人も退屈傾向があるんじゃないの?」みたいな話は他にも所々に出てくるので、ここに挙げられるものに限られるわけじゃないとは思う)

まず、外的要因である。

  • 単調さ…心的資源を占有しない活動

  • 目的のない活動…逆説的に、根拠さえ見つけられれば(健康に良い、お金が得られる)価値あるものに変えられる

  • 制約…何かを強いられたり、妨げられる。反復作業への馴化により覚醒水準が変動

  • 絶妙な領域を見つけられない…自分のスキルや趣味と、自分のできることがうまく適応する「ゴルディロックスゾーン」(ちょうどいいところ)を見つけられないこと。難しすぎても簡単すぎてもいけない

これは分かりやすい。単調な作業は目的がなく感じられ、かつ制約(ミスが人命に関わるなど、集中を要する作業)があれば他のものに没頭するといった「気晴らし」もできない。こういった環境では退屈は生じやすい。
ただしここで重要なのは、これらが全て「主観的な判断」であるという点である。金属片に穴を開け続けるだけの作業にも意味を見出して、退屈とは程遠いような人もいる。その個人差に関係してくるのが、退屈の内的要因である。

  • 情動…その瞬間に自分がどういう状態であるかの感触

  • 生理…環境に注意を払い敏感に反応する能力

  • 認知…自分を取り巻く世界について考える能力

  • 動機づけ…何かに没頭する推進力

  • 意志またはセルフコントロール…計画を立てて遂行する能力

これだけでは分かりにくいので、一つ一つ見ていこう。まず「情動」とはいわゆる感情のことだが、その役割は物事の優先順位を決めることである。例えば楽しい感じることは優先的にやり続けたくなるし、イライラすることからは離れたい。情動は価値判断を伴うのだ。よって、「情動に気付きにくい人」は退屈しやすいと言えるのだ。要は「感情が死ぬと退屈する」。
次に、「生理」(生物学的特徴)。情動によってすべきことが見つかっても、脳が十分に反応しなければ没頭することができない。これは外的要因の「単調さ」や「目的」に関わる。退屈傾向が強い人は、環境に慣れやすいという。慣れると当然得られる刺激は少なくなる。そしてより強い刺激を求めて他の行動へ移ってゆく。
ここには「認知能力」も深く関わっている。ここで言う認知能力とは「注意を向けているものをコントロールし,気を散らすものを遮断し,衝動を抑制し,思考中は関連する情報を保持し,さまざまな思考対象に柔軟に切り換える能力」(P52)を指す。一般的に集中力と呼ばれるものだ。注意障害を持つ人は退屈を感じやすいという。注意の低下は「物事に没頭する能力」と「自分がしたいことを見つける能力」の両方を低下させ、退屈を増大する
次に「動機づけ」である。世の中の人は二種類の人がいると言われる(というと怪しげな話っぽいが)。「楽しみを最大化する動機づけ」の人と「苦しみを最小化する動機づけ」の人である。これらは両極端な存在だが、どちらも退屈につながる可能性がある。興奮や楽しみを求める行為は過剰になれば、今ある選択肢に十分に満足できなくなる。一方の苦しみを最小化する行為は、過剰になると世界への没頭を避けようとするので退屈する。ちなみに筆者らの研究によると、前者の人々は退屈の「頻度」が大きく、後者は退屈の「強度」が大きいらしい。なおここで重要なのは、報酬が欲しいとか怒られるのが嫌だとかいう外発的動機づけでないもの——「内発的動機づけ」の存在だ。行動のプロセス自体が動因となる内発的動機づけは、主体的でありたいという欲求を満たす。よって退屈しにくい!
そして、その主体性に関わるのが最後の「セルフコントロール」だ。これは「『真っ先にしたいことは何か』を考え,それを成し遂げるために,思考や感じ方,行動を調節する」能力である。主体性によって欲求が具体化され、目標や行動計画が立てられる。具体的な目標があるからこそ衝動にとらわれず行動できる。

内的要因を挙げるだけでめちゃくちゃ長くなってしまっった。しかし、ここはとても重要だと思うのだ。退屈の要因を考えること、すなわち「あなたの退屈は、どこから?」という問いは、そのまま具体的な解決方法(ベン●ブロック)につながる。注意力が足りないならばマインドフルネスが有効だろうし、セルフコントロール力を上げる方法はあらゆる自己啓発本に書かれている。まあ実際のところ、どれか一つが明確な原因ということじゃなく複合的なのだろうけれど、まずは退屈について理解を深めることが重要だ。


気晴らしについて SNSは退屈を悪化させるのか?

退屈の意味を好意的に解釈するならば、「あなたは今あなたがやっていることに没頭できていないですよ。他の何かをやったほうがいいですよ」というサインである。よって、退屈それ自体は良いものでも悪いものでもない。
しかし、退屈を放置し心的処理能力を発散させなかった場合(本当にそんなことができるならば)、あまりよろしくない結果になるだろうと推測される(おそらく思考能力が落ちたり精神的なバランスを崩したりする)。

もちろん、多くの人は退屈に耐えられないので何かしら活動をしようとする。内発的動機づけに基づく有意義な活動をする人もいれば、内面に向かいすぎて抑うつ的になったり、刺激や衝動に駆られて依存性の高い物質に走ったり、政治的イデオロギーに熱狂したり、最悪犯罪に関わってしまう人もいる。(こうした点は『暇倫』序章で紹介されたアレンカ・ジュパンチッチの指摘とも一致する)
これらはあくまで退屈に対する反応であり、どういった行動に走るかは個人の資質によるとしか言いようがない。

だが、実際に多くの現代人が取るであろう気晴らしは想像に難くない。ネットサーフィンやSNSである。本書では一章を割いてこれらの気晴らしの是非について論じている。
結論から言うと、「ネットやスマホは退屈からの避難場所であるが、最終的には疲弊や悪化をもたらす可能性が高い」とのことである。理由は以下。

  • 多すぎる情報はノイズであり、「意味」をもたらさない

  • 情報を理解し意味を見出すには様々な関連情報の統合と解釈が必要であり、これには時間と努力が必要

  • SNSはするべきことを与えてくれるが、「自己決定した価値のあることをしたい」という欲求を満たしてはくれない

  • ネットのつながりは「つながりのないつながり」であり、他者との間に意味のあるつながりを築けない


どうだろうか。自分はあまり納得できなかった。本書は後半にいくに連れて推測の割合が増えている。正直この章は「スマホってなんか悪影響な気がする」という価値観前提で書かれている感じがする。(そもそも退屈と意味の関係についても「因果関係ではなく相関関係」とされている)もちろん、この分野がまだ研究途中なのは分かる。ネットやスマホが退屈に与える影響を研究するならば、テクノロジーを使っていない大規模な集団との比較が必要だが、そんな集団はもはや存在しない。

ここで改めて「SNSは退屈を悪化させるのか?」という問いに戻ってみる。結局この答えは「人による」ではないだろうか。
ネットの依存性だとか、健康への悪影響だとかそういう話は一旦置いといて、「退屈」の観点だけで考える。退屈は没頭感の欠乏であり、主体感の喪失である。しかし、スマホを用いた何らかの活動に「人生の意味」を見出している人だっているだろうし、ネット空間で主体性を発揮することだってできるだろう。
したがってより正確な結論を言うならば、「ネットやスマホは使い方によっては退屈を増大させる」ということになるだろう。
まあ、それを自分の意志で律せられる人が少ないから問題になるのだろうが。


退屈しないためには? 対義語を考える

人は何かに没頭したいという欲求を持っているが、これが阻害されると(個人差はあれど)退屈する。処理能力を適度に活かして没頭するためには、主体感をもって取り組める活動が必要である。というのがここまでのまとめだ。

では一体「没頭できる活動」とは何か。それを考えるために、退屈していない状態について考えてみる。
本書で挙げられる退屈の反対概念は次の四つである。

  • フロー体験

  • 興味

  • 好奇心

  • リラックス

フロー体験とは、「没頭」の究極系である。いわゆる「ゾーンに入る」的なやつだ。ワールドトレードセンターを綱渡りしたり、命綱なしでのロッククライミングに挑む人々はフロー状態に入っている。彼らは恐怖感を完全に手放している。フローに入るためには、明確な目標と、スキルと課題とのバランスが絶妙である(難しすぎず優しすぎない)こと、十分すぎる練習を積んでいることなどが要求される。
フローに入るのは一般人にはなかなか難しいが(極限感が必要?)、そこまで行かずとも、普通に興味を持つことも退屈を退けられる。興味を持つ対象には没頭を維持することができる。退屈と興味は厳密な意味では反対概念ではなく、退屈が人を興味あるものへ向かわせると言えるだろう。両者は同時には存在しない。
好奇心はどうだろうか。好奇心は私たちを探求行動に駆り立てる。現状で満足せずより良い環境を求めることで、豊かな資源を得られる可能性がある(=機会費用の損失を最小化できる)。好奇心は退屈と負の相関関係にあるという研究もある。
以上の三つはどれも「具体的な目標を追求する」という共通点があった。しかし、そんなに肩肘を張らずとも退屈から逃れる方法がある。リラックスだ。リラクゼーションの状態において、私たちは欲求から解放されている。このとき、退屈の前提である「精神的に空虚な状態」は成り立たないので、リラクゼーションは退屈を退けられる。ただしリラックスするには、刺激的な環境を求めず、活動しなくても退屈しない能力が必要である。

以上のように、没頭できる活動にはさまざまなレベルのものがある。しかし、これらはあくまで「退屈をもたらさない」ための活動である。現に今退屈してしまっているとき、我々はどうすれば良いのか?


退屈を受け入れる

退屈は人に行動を呼びかけるシグナルである。「私たちの主体感が縮小していて,それに関して何かをする必要がある」ということを教えてくれるメッセージだ。
しかし我々は時に退屈を恐れ、そこから逃げようとする。すると、退屈はより苦しいものになってしまう。

自分を,満たされ,刺激され,癒されるべき空っぽの器のように扱っていてはいけない。主体であるというのは,努力を必要とする事柄である。
同上 P83

では今まさに目の前にある退屈に向き合うとはどういうことか。それは、「マインドフル」になるということである。注意を今この瞬間に向けるスキルを高めて、「自分の体験の原動力」を詳しく検証する。これは極めて主体的な行為である。

本書の結論をまとめよう。これだけ読むと曖昧に感じられるが、ここまでの流れを踏まえた上で自分自身に当てはめて考えてみれば、何か見えてきそうな気がする。

  • 退屈を感じたら、深呼吸し、注意を支配する外部の力を追い出し、自分の限界を受け入れ、主体感を満たす行動を追求する

  • 欲求や目標を曖昧にするのではなく、明確にする

  • 自分にとって重要なことを表現する目標を追求する

  • プロセス自体を目的にする

  • 周囲を魅了する活動を選び、深いつながりに引き込まれるようにする

  • 自分が唯一無二の存在として没頭でき、何者であるかを表現できる活動を見つける



『暇倫』と繋げて考える

ここまで『退屈の心理学』の内容を細かく見てきた。冒頭にも書いた通り、本書は個々人が退屈とどう向き合うかという指針を示す内容だった。これらは『暇と退屈の倫理学』の結論とどう対応しているだろうか? あるいは相反しているだろうか? その辺りをちょっと考えてみたい。

『暇倫』の結論は以下の3つである。

  1. 結論そのものよりも、理解する過程が大切

  2. 観念的な消費をやめ、贅沢を取り戻す。そのためには楽しむための訓練が必要

  3. 何らかの対象に強くとりさらわれ、思考を余儀なくされる〈動物になる〉状態が必要。楽しむための訓練を日常の中で行えば、〈動物になること〉を待ち構えられる

二つ目の結論で言われている「消費から浪費へ」という話は、『心理学』で見てきた「情報の解釈には時間が必要」「外部の刺激で退屈を覆い隠してしまわないことが大切」といったことと繋がっているだろう。また、「楽しむための訓練」とは要するに没頭するため「マインドフルになること」であり、「注意力やセルフコントロールのスキルを高める」ことと言える。
では「動物になること」はどうだろうか。『暇倫』は日常的な退屈の第二形式を「人間的な生」であるとし、そこから外れ強く熱中する状態を「動物になること」としている。これは要するに没頭のレベルであり、『心理学』の「退屈の4つの反対概念」と対応していると考えられる。すなわち究極の動物状態とは「フロー状態」ではないか。

こうしてみると、退屈への向き合い方という点では両書の間で大きな差はないように見える。では、「倫理学」と「心理学」というテーマにはどのような違いがあるのだろうか?

『暇倫』の「倫理学」がかかってくるのは、主に「暇」に対してだろう。暇は外部環境によって簡単に奪われてしまう。だから我々は社会に働きかけ、暇を取り戻さなければならない。しかし、暇を取り戻しても退屈への耐性がなければ、自ら暇を放棄してしまう。こうして退屈に向き合う必要が生じる。
よって『暇と退屈の倫理学』は『退屈の心理学』を包摂するようなテーマであると言えるだろう。


なお、『暇倫』の著者・國分氏が取り組まれている「中動態」というテーマも、「主体感」というやや曖昧で主観的なものについて考える上で重要なキーワードだろう。能動・受動という枠組みを取り払うことは「あらゆる行動は自分の意志である」という前提に疑いを向ける。自由意志の存在が揺らぐ中で、それでも「主体感」を持つとはどういうことだろうか?
この問いは「〜すべし」という安易な解決策(外部の力)に飲み込まれることを阻止してくれるだろう。

昔々、あるところに読書ばかりしている若者がおりました。彼は自分の居場所の無さを嘆き、毎日のように家を出ては図書館に向かいます。そうして1日1日をやり過ごしているのです。 ある日、彼が座って読書している向かいに、一人の老人がやってきました。老人は彼の手にした本をチラッと見て、そのま