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過剰について

「あなたを一言で表すと?」みたいな質問って考えるのが面倒なので好きじゃないけど、今の自分にはぴったりの言葉がある。「過剰」である。
身の回りの、あらゆる物事が過剰になっている。それでめちゃくちゃ困っているというわけではないのだけれど、なんとなくこのまま放置するのも気が引けるので、じっくり考えてみようと思った。


出費の過剰

まず第一に、出費が過剰になっている。
家計ノートをつけているが、月末に総出費額を計算するとびっくりしてしまう。なんでこんなにお金を使っているのか。
分かりやすいところでは、100円ショップでの出費が月に1万円を超えている。確かに最近のダイソーは百円以上の商品も多いが、それでも百円換算で月に100個も買っているのは正直買いすぎだと思う。実際そんなに必要じゃないものをついで買いしたりして、結局使わなくなってしまうことも多い。例えば無駄に文具の種類を増やしたり。

直近では、食べきれないほどの柑橘類をストックしてしまっている。みかんがこれだけあると、絶対何個か腐らせてしまう。食べ切ってから買うべきなのだ。

みかん、ポンカン、八朔、レモン、麗紅。

食の過剰

出費の中で大きな割合を占めているのが食費である。食も過剰になっているのだ。
現在、弁当が二食支給される生活をしている。つまり一日一食分だけあれば食事は十分なのだ。安く抑えようとしたら、近場で買える格安のパンだとか、ストックしているシリアルや米にちょっとしたおかずを付け足せば、食費はかなり抑えられる。理論上は。
しかし現実は、食べ切れないほどの食材をストックしたり、それほどお腹が減っていないのにお菓子を食べてしまっている。これがエンゲル係数を底上げしている。
その一方で、ある時は健康を考え野菜とか魚の缶詰とか(魚を調理できる環境がないので)を食べたりもしている。健康なのか不健康なのかよく分からない。
要するに過食気味なのだ。確かに毎日一万歩以上歩く全身運動的な仕事をしているものの、夜や休日にまでカロリーを摂取し続ける必要は恐らくない。そもそもよくよく考えるとお腹もそこまで空いていないのである。どちらかと言うと口寂しさから何かを食べてしまう。

積読の過剰

さて、次に出費を膨らませている要因は、本である。正直そんなに買っている感覚はないのだけれど、気づくと積読が月に数冊増えている。それはまあ以前からそうなのだが、問題は、今の生活がもう一ヶ月もしない間に終わって、その後は荷物一式引っ提げて帰省しなければならないという点である。つまり、荷物を増やせば増やすほど帰るのが大変になる。引越し業者を使うには荷物が少ない(あと時期的に割高になる)、でも車に積むとなるとちょっと大変。それぐらいの微妙な感じになっている。荷物が嵩張っている原因は本とパンフレットやフリペ類である(この紙モノ、ダンボール2、3箱分もある……)。
もちろん、それだけ読書量が増えているのであれば仕方ないと思えるのだが、実際は何かと理由をつけて先延ばしにしている。8割積読である。今読まないのであれば、たぶん帰ってからも読まないことになる。どうせまた積読増やすんだもん。


過剰の原因は何か?

以上、自分にとっての三大「過剰」要素を挙げ連ねてきた。それぞれが単体で過剰になっているし、互いに作用し合ってもいる。

改めて確認するが、今のところ特に深刻な問題は起きていない。体重が急激に増えたり、貯金が底を尽きたり、部屋の床が抜けたりなどはしていないということだ。ただ、以前の暮らしと比較したときにちょっとモヤモヤするということだ。
そのモヤモヤは「ちゃんと貯金したい」とか「健康に気を遣いたい」という気持ちから来ているのだが、世間の声的なものの影響もかなり受けてはいる。だから完全な本心ということもできない。それが「モヤモヤ」程度で落ち着いている理由だろう。
だが、完全に無視してしまうのもちょっと心苦しいので、ここは一度、原因を考えてみよう。


仮説1 「何かを埋めようとしている」説

まず、過剰が始まった原因についてだが、これははっきりしている。一人暮らしが始まったからだ。自分は今まで何度か一人暮らしをしたりやめたりしてきたが、今までの一人暮らしでも似たような傾向はあった。一人で暮らすとモノを増やしてしまう。
ではそれは何故なのか?
物理的理由としては、複数人で暮らすと自分のスペースが限られてくるという部分がある。広い部屋に住んでいるというわけではないのだが、一人暮らしのほうが「自分のスペース」的な感覚は大きくなる。マイスペースではどこに何を置こうが自分の自由だ。だからモノも増えやすくなる……というのは一つの理由である。ただし、これでは過食などがうまく説明できない。だから、物理的な原因より心理的な原因のほうが大きいはずなのだ。

そこで思いつく可能性が、「何かを埋めている」という説である。
モノを買うことも、食べ過ぎることも、要するに「何かを自分の内側に取り込んでいる」ということになる(お金は外へ出ていってるけど)。何かを取り込むことで、心の穴みたいなものを埋めようとしているのではないか。それなりに有力な説である。
一人暮らしで感じてしまう「穴」といえばやっぱり孤独である。もちろん家族や知人の近くにいても孤独を感じることはあるのだが、一人暮らしの孤独のほうが何というか直接的な感じがする。
そんな孤独を避けるために、モノという他者を自分の内に取り込んでいるのではないか。おお、なんかそれっぽいぞ。
もちろん「穴」というのは孤独に限らず、環境変化による不安とか、言語化できない感情も色々あると思う。そういったものからの逃避として、過剰という手段をとっているのではないか。

ちなみに、noteに何度も書いているが、一人暮らし以前の「孤独を埋める作業」の大部分は読書が担っていた。図書館通いである。それが環境と孤独の質の変化によって消費や過食になったと見ることもできるのではないか。

仮説2 「思考を止めている」説

説1が有力すぎて正直そんなに変わらないのだけれど、少し違った見方をすると「思考停止のスイッチになっている」とも考えられるのではいか。
百均でそこまでいらないものまでつい買ってしまうのは、完全に『暇倫』でいうところの「情報消費」である(そのもの自体の価値ではなく、それに付随した情報を買っている、みたいな感じ。モデルチェンジするたびスマホを買い替えるみたいなやつ)。そう考えると、これは目的もないSNSサーフィンと同列の行為かもしれない。
暇な時間にぼんやりと浮かんでくるのは、漠然とした将来についてや、見て見ぬふりをしている生活の細事についてである(面倒な掃除とか、明日の朝食の準備とか)。そういった思考を先延ばしする手段として、情報を過剰に摂取しているのではないか(百均の商品やネットサーフィンや安いお菓子から得られる情報は暇倫の言う「プア」な情報で、故に過剰に摂取しなければ長続きしないのかも)。

仮説3「生活してる感を得ている」説

一人暮らしを始めた途端に普段買わない食材を買って作ったことのないレシピに挑戦したりするのは、なんだか「理想の一人暮らし」のパロディをやっているような感じがする。というか生活力が低いので、世間一般の暮らしのイメージを参照しないと「こんなんでいいんか?」と不安になってしまう。
その理屈で言うと、あちこち巡ったりお土産をたくさん買うのも「観光客らしい行動」をやっていることになるだろうか。なんにせよ、自分であらゆることを決定して我が道を行く……みたいなのは苦手である。そして情報過多の現代において「理想」の数は限りなく、それを真似していると結果的にあちこち手を出してしまう、ということだ。


過剰を止めるには?

思いつくままに過剰の原因を挙げてみたけれど、どれも完全にしっくりとくるわけではない。かと言って、全て間違っているというわけでもないと思う。その時々によってバランスが変わっているというのが実際だろうか。

この文章を最初に書き始めてからそれなりの日数が経ったのだけれど、その間も「過剰」は相変わらず続いていた。ただし、あまり意識しなくなっていた。ぶっちゃけちょっとどうでも良くなっていた。考えるのが面倒だったのだ。
自分に向き合うためには、時間的にも精神的にも余裕がいる。「過剰」であることは、そこから一時的に離れてストレスを発散させられるが、あまり長続きはしない。だから結局、時間をかけて自分と向き合うという作業が必要になってくるのだろう。

買い物をするのも、一日動き回ってあちこち行くのも、一瞬で終わってしまう行為である。一方で、物を作ったり、本を読んだり、一日同じ場所に止まってゆっくり過ごすというのはどうしようもなく時間がかかることだ。そういう時間には退屈も付きまとってくるけれど、結果的に「じっくり考えさせられる」ことも多い。つまり、過剰をストップさせるためには、どうしようもなく時間がかかる物事に取り組んでみるのがいいのかもしれない。

昔々、あるところに読書ばかりしている若者がおりました。彼は自分の居場所の無さを嘆き、毎日のように家を出ては図書館に向かいます。そうして1日1日をやり過ごしているのです。 ある日、彼が座って読書している向かいに、一人の老人がやってきました。老人は彼の手にした本をチラッと見て、そのま