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大切なものは目に見えない。大切な人くらい自分で決める

歌を聞いて涙を流したりしている。

やたらと未練がましい曲ばかり選んでは
歌詞を何度も見返して
自分を重ねたりする。

この歌を彼も聞いたら良いのにと思う

夢で会いたいと思ってる時に限って
夢には出てこない。
そういうものだ。

彼の発言の背景が
全然予想つかなくて
後になってどんどんモヤモヤしてくる

私の両親は離婚している

学生の頃離婚するかもと
親から伝えられた時は
雷が落ちたような衝撃だった

もちろん学生の私だって
離婚ってものが世の中にある事は知っていた
周りの友人で親が離婚している人だって
いないわけじゃなかった。

だけど、私の正解で
家族っていうのは
好きとか嫌いとか
そういう次元じゃない
離れるとか離れないとか
そういう概念のないものなような気がしていた

家族を失う悲しみは家族が
この世を去る時だけだと思っていた。
離婚で家族がバラバラになって悲しむなんて
そんなことは私の中で許さない
そんな気持ちだった
悲しかった。

私は親から愛されていないんだと
今までたまに思ってきたことを
また答え合わせするかのような感じで
自分の中では解釈した。
やっぱり愛されていないんだと
自分の中で一致させた。

大人になった今、結婚した今、親になった今。
やっとわかることがある。

毎朝我が子にお弁当を作っている時
私は毎日愛情を込めている自覚もないが
なんとも思わない愛してもいない存在に
毎日お弁当なんて作れないなと思う
私は楽しんでいるつもりもないけど
義務感だけでお弁当を作っているつもりはない

やっぱり私は毎朝我が子に
お弁当を作れることに対して
充実感や幸せ、愛しさ、そんな気持ちがあると思う

自分の母親がいかに私を愛してくれていたのかが
自分が与える側になって
初めてわかる。

若かった子どもの私は
あるものだってたくさんある世界に
無いものばかりに目を向けた。
私の望む形ではなかったんだろう。
もっとこんなふうに愛されたいだとか
こんな言葉を欲しいんだとか
あの家族は羨ましいとか
外にばかり目がいっていた気もする

親との関係は小学生から私が出産してもなお劣悪で
ずっとずっと愛されていないと思って過ごしていた

私の中で積み上げていたものが
きっとあるのかもしれないけど
全然言葉にここはならない。

二人目を産んで
一人ではどうしよもないことも出てきて
頼るようになってからだろうか

私は母親と和解というか
会話のできる普通の母子にやっとなった気がする。

20年以上の長い間
会話もほとんどない関係で
結婚の時だってやっと自分に帰る場所ができたと思ったくらいで
母親に感謝なんて思わなかった。

父親に関してはもう20年近く会っていないけど
それでも私はもう
愛されていないなんて思わない。

親になった今
この尊い命を繋いでくれた父と母には
感謝してもしきれない。
父と母のそのまた父と母
おじいちゃんおばあちゃんにも
感謝が溢れてくる。

結婚ていう契約は
解消したかもしれないけど
大切な人って思うことには
契約なんていらない。

自分が大切だと思う人くらい
自分の素直な心に従わせて。
形のないもの、目に見えないもの
だけど確かにここにあるもの。

愛しています
ありがとう

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