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おやすみハチミツあります

日がとっぷりと暮れた頃、森の入り口にひとつの灯りが点ります。
それはちいさな灯りでしたが、辺りがとっぷり暗いので、お月様が落としたかけらのように明るく見えました。
灯りの下にはちいさな看板が吊られています。

おやすみハチミツあります。Dr.クマ

灯りも看板もウサギの背丈くらいの高さですから、わたしのような人間がその文字を読むのは少しばかり面倒ですが、森の動物たちにはちょうど良い高さでした。
リスの紳士が木からするする下りてきて、看板を見つけました。
「おやすみはハチミツとは、好都合」
リスは看板をくぐって森へ入って行きました。
暗がりのなかに、ぽつりぽつりとちいさな灯りが伸びています。灯りの終いはペン先で突いたような薄黄色の点に見えました。どれだけ続いているのかわかりません。
この辺りにハチミツを売る店などあっただろうか。リスは首を傾げましたが、今夜はどうしても眠りたかったので、灯りを追っていきました。
最後の灯りは、雲の切れ目から覗く満月のように、背の高い草の奥に点っていました。
扉にはやはり看板がさがっています。

おやすみハチミツあります。Dr.クマ

リスはドアベルの鎖を引きました。
くぁーん、くぁーん
澄んでいるのに体の深いところに直接響くような不思議な音がします。
扉はひどくゆっくりと仰々しく開きました。
にゅっと突き出された鼻の大きいこと!クマ博士はやはり大きなクマなのでした。
リスはぶるぶる震えて全身の毛が凍てついたようになりました。
大きな鼻の上にまるいメガネがのっています。レンズの奥の目が柔らかく弧を描いていました。
「こんばんは。どうぞなかへ」
リスは胸元をきゅっと抱き寄せて博士の後ろをついて行きました。
外套こそ立派に着ていましたが、袷から縞模様のパジャマが覗いています。
博士はまったくなにもかも御見通しいうふうに微笑んでリスをソファへうながしました。
リスがパジャマ姿であっても、博士はちっとも気にならないのですが、リスは紳士ですから、いつでもきちんとしていないと居心地がわるいのでした。
少し考えてから決まり悪そうに外套のまま大きなソファの縁に座りました。
「博士お願いがあるのです。どうか私におやすみハチミツとやらをください。私をどうか眠らせてください」
リスの向かいで、ギリギリソファに収まっている博士はゆっくり頷きました。
「明日が何の日かご存知ですか?いや、結構。博士が知るはずはありません。今はまだ何の日でもありませんから… 明日、私は私の可愛い恋人にプロポーズをするのです。明日は私の本当に特別な記念日になるのです。指輪もこさえてありますし、たいへん景色の良い枝も見つけてあります。万事整っているのです。なにも心配することはありません。それなのに、明日のことを考えると胸がドキドキして眠れないのです」
話しているうちに、リスの気持ちはますます昂ぶっていきます。
次第に訳がわからなくなって、もう泣き出したい気持ちでいっぱいでした。
博士は暖炉の火をあかあかと浴びながら、うっとり目を細めて聞いています。
その様子があまりに穏やかだったものですから、壊れたダムのような濁流を見せるリスの言葉がそのまま吸い込まれて消えていくように思われました。
「まあ、落ち着いて。これをお上がりなさい」
博士はちいさなカップをリスにすすめました。
クルミの殻で作られたカップに良い薫りのするミルクが満ちています。
リスは膝の上に握っていた拳を綻ばせて、そっと手を添えました。
冷たく汗ばんでいた手の平がぬるんでいく感覚に、思わず溜息が漏れます。
ミルクはなめらかに喉を滑っていきました。
「ほう、」
零れた吐息も甘い薫りです。
瞼が重くなってきました。抜け出してきた寝床がひどく恋しくてたまりません。
おやすみハチミツの効果は抜群でした。
リスは感心して「見事なハチミツですね」と言ったのですが、その声はとろとろと溶けそうでした。

博士のもとへは毎晩いろいろな動物がやってきます。
かくいうわたしも、博士の患者のひとりでした。
わたしは物書きを生業にしています。作家と名乗るのもおこがましいような、少し上手く文が書けるだけの凡人にすぎません。
凡人のわりに運が良く、雑誌の連載をいくつか抱えているので、なんとか人並みの生活を送っています。
しかし凡才の身には月毎の〆切りというやつが重く苦しいことが時折ありました。
日の出から机に向かっていても書けない。月が昇っても書けない。そんなときは眠ることもままならないのです。
ぼんやり空洞の頭の内を眺めながら眼が冴えるばかりで、どれだけ眼を凝らしてもそこには何もないのです。
横になっていると喉がきゅっと詰まるように苦しくて、月明かりの下に散歩に出ました。
そして見つけたのが博士の看板だったのです。
博士はわたしの話を聞くと、ハチミツの瓶をわけてくれました。
おやすみハチミツの効果はご存知かと思います。わたしにも大変よく効きました。
そのうえ更に良いことがあったのです。
ハチミツを舐めて眠ったあとは頭が軽く、原っぱで緑の風を吸い込むように晴れ晴れとした気持ちになります。
わたしの頭にはするすると文字が綴られて、歌うように原稿用紙に宿っていきます。
わたしの喜びようはきっとあなた方の想像以上でしょう。
嬉しくてうれしくて、わたしはつい、夜だけでなく昼にもハチミツを舐めるようになりました。
思うように書けなくて苦しくなるとハチミツを小さじに掬います。
ほんのすこし、ちょんと舌に乗せる程度です。
それだけで、やさしい甘さがじんわり指先まで広がってうとうとまどろみ始めます。
気付くと長い昼寝をしていて、窓の外の白い月に「おはよう」と言う。
それから仕事にかかるので、当然眠るのは真夜中を過ぎてしまいます。
これでは良くないとわかっているのですが…
そんな私が頼ったのは、やはりクマ博士でした。
博士はいつかの夜と同じようにうっとりとわたしの話を聞いてくれました。
しかし博士は眠らせる専門家です。「ハチミツをなめても眠らない方法」なんて簡単には見つかりません。
「ミツバチに相談してみましょう。彼らはとびきり働き者ですから、きっと良いアドバイスをくれるでしょう。明日の夜またいらしてください」
博士はおっとりと言いました。
その晩はだされたホットレモネードを飲んでしまったために、久しぶりに長夜を夢のなかで過ごしてしまいした。
眠りに落ちる寸前に、マシュマロを食むように「〆切が、しめきりが・・・・・・」と呟く自分の声を聞いた気がします。
翌日、夜更けに博士を訪ねると、あたりには香ばしいにおいが漂っていました。
わたしにはどこか懐かしくかんじるにおいでした。
博士は暖炉に背を向けてフラスコのような器具をいじっています。
年季のはいった白衣が橙に染まって、毛羽がちらちら光って見えました。
こぽっこぽっと沸く泡。ふわりふわりと昇るけむり。懐かしいにおいが濃くなります。
それは、コーヒーのにおいでした。
博士のハチミツに出会うまではコーヒーこそがわたしの仕事の相方だったのです。
しばらくの後、わたしの前に湯気をたてるカップが置かれました。ミルクが灯りの具合でかげったように、ほのかに色づいています。
「さ、どうぞおあがりください」
博士にうながされるままカップを傾けました。
ハチミツの甘さが全身を包みます。ゆらゆらと揺り椅子にゆられているような心地がして、目を閉じました。ほ、と息をつけば胸に残るのは、なつかしいコーヒーの苦みです。
わたしは目を開けました。
博士は相変わらず、何百年もそうしているように、微笑んでいます。
「これは、素晴らしい」
頭は軽く、わたしの目も耳もまったくハッキリと活動していました。暖炉の火はより透き通って見え、薪の弾ける音が聞こえます。
ありとあらゆるものが物語を語ってくるように文字が浮かんできます。
「それはようございました」
うっとり言うと、博士のはほんのすこし忠告をしてくれました。
「仕事はほどほどに、今夜もきちんとおやすみくださいね」
頬を掻くわたしに、博士はハチミツとカフェラテのレシピを渡しました。カフェラテには大変素敵な名がついていました。

ハニーハグラテ、と。

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2020年11月の文学フリマ東京に出店した際、合同サークルの相方 瑞希ちゃんから差入れをもらいました。
それがマウントレーニアのハニーハグラテ。
ネーミングとパッケージが可愛くて、ふわっと物語が浮かびました。
甘いにおいが伝わるでしょうか。

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