さよならマリー

その男の子はいつも私をマリーと呼んでいました。
おはようマリー、おかえりマリー、垣根の向こうから呼ぶ声がします。小さな黄色い花が水玉模様のように咲いた垣根をよく探ると、青い瞳と目が合うのです。
それは私がまだ5つか6つの時の記憶でした。
私の名前はマリーではないし、マリコでもマリナでもありません。それでも、たしかに私はマリーだったのです。

「ママ、むかしこの辺りに外国人の男の子が住んでいたよね。くるくるの金髪でおめめの青い」
マーガリンを塗ったトーストを齧りながら聞くと、ママはただ首を傾げてコーヒーの入ったマグカップをお皿の横に置きました。早く目を覚ませと言わんばかりに。これは夢の話でも映画や絵本の話でもないのに。

男の子は大きな庭のある大きなお家に住んでいて、私が前を通るたびに話しかけてくれました。
ある朝、私はピンクの長靴を履いて翠雨のなか一人で遊んでいました。ママに買ってもらったばかりでピカピカした長靴は水溜まりに鮮やかに映って、私はたいそうご機嫌でした。
そこら中がしんと静かに雨に打たれながら細く息をしているようで、私の足音だけがパシャリと響きます。
「誰かこの長靴を褒めてくれる人はいないかしら」
期待を込めて男の子の家の前を通りましたが私を呼ぶ声は聞こえません。時計まわりに、また逆に、黄色の垣根をぐるぐる回るうちにいつしか日は暮れていました。そして雨が上がっていることに気が付いたとき、私は長靴を片方なくしていることに気が付いたのです。
急に足の裏が冷たくなって、肩がガタガタ震えて目からぼろぼろ涙が零れました。しっとり静かな雨上がりの街中に私の泣き声だけが響きます。
「マリー、どうして泣いているの」
男の子の声がします。聞きたくてたまらなかった声でした。それでも私の目からは涙が止まないので花の黄色も葉の緑もなにもかもぼやけて青い瞳が見えません。
「ねえ、マリー僕がなんとかしてあげる。大丈夫、大丈夫だよ」
男の子は大丈夫だと繰り返します。
ようやく涙が乾いたとき、辺りはすっかり暗くなっていました。もう何色も判然としません。
「さよならマリー」
その声を背中で聞きました。

男の子に会ったのはそれきりでした。
男の子のことも長靴のこともすっかり忘れていました。
長靴がどうなったのか?それはさっぱり思い出せません。

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