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ジョーカー Joker (2019) ; 水のようにのみほしてしまう悲劇

【本記事は2019年11月5日に別媒体にて公開されたものに加筆・修正を加えています】


設問. この世界はあなたのものですか。

回答. いいえ、これはただの水です。



ジョーカーとは机上を掻き回す存在だ。
決められたルールの外側で、何者にもならずに立ち回る。

タイトルをシンプルに『ジョーカー』と銘打つだけあって、ともすると煙に巻かれたような印象さえ受ける。
と同時に、愚直なまでに真っ当な映画作品として成立してもいる。

アーサー・フレックジョーカーに転身する大筋の流れは、ホアキン・フェニックスの身の入った演技も相まって、とても丁寧に進行していく。虚実入り混じる演出で、細かくエピソードが積まれていく中、大きく二つの物語が重なって構成される。


第一に、社会的抑圧に遭っていた弱者アーサーが犯罪に手を染める復讐劇。


第二に、人生は喜劇であるという気付きの元、ジョーカーが誕生する変身劇。


復讐劇は上からの抑圧、そして下からの反撃。わかりやすい垂直運動がみられる。
変身劇はどちらかというとわかりにくい平行方向の運動だ。
ここでは喜劇笑いの特性が活かされている。笑いは同じ感覚を共有する者の間で、平行な方向に伝染してゆく。

アーサーがコメディショーの観客として参加するシーンがある。
妄想であろうTV番組の公開収録では、周りの観客たちと同じように屈託なく笑っている。
これに対し、現実であろう場面では、彼の笑いは痛々しく周囲とずれている。
アーサーが登壇する場面では、障害の発作により、観客の笑い声はまばらだ。対して、アーサーの憧れる番組司会者、マレーが彼のVTRを紹介する際には、"滑稽なコメディアン"という残酷なレッテルによって笑いが起こる。

コメディショーのような人工的な場では、自然な笑いではなく、同調圧力に似た反射的な笑いが引き起こされていることが強調されている。
これらの笑いのシーンは、ひとつひとつ意味合いが異なっている。
挙げていくとキリがないが、たとえば、アーサーの同僚ランドルが、同じく同僚の小人症であるゲイリーを小馬鹿にする場面。
ここでは、アーサーがゲイリーよりも優位に立っているという先入観を持っている為、ランドルの冗談を共に笑っていることがわかる。


もう一つ印象的なシーンは『モダン・タイムス』(1936)の引用だろう。
映画館はコメディショーに似た場ではあるが、観客の笑いとセットになっているショーと違って、映画の場合、一応作品だけで独立している。
その為、上品そうな観客たちとアーサーの間で、笑いの質に相違はなく、こちらの方が自然な笑いに近い。

この平行方向の物語は、笑いだけではなく、ピエロの面やメイクでデモを行う大衆の姿にもみられる。
このデモは社会現象であり、アーサーの誇大妄想として片付けても自然な印象を受けるが、否定するようなシーンは挿入されていない。


このあたりで、二つの物語が合流して斜めの方向に進んでいく。

母親を殺害した後、アーサーはジョーカーに転身する。マレーの番組出演オファーもあり、どんどんと物語が進行していく。
この前後で、アーサーの出自に関する情報が錯綜し、観客を揺さぶってくる。関連して、アーサーが本当に母親を殺したのかどうかもうやむやにされている。
それまでは妄想なのか現実なのかわかりやすく提示されていたが、アーサーの混乱と同期するように真実がはぐらかされる。

この虚実入り乱れる演出のピークから、それまではアーサーが正気を保っていたということがわかる。
更にいえば、妄想のシーンを引き起こしていたのは、主に上からの抑圧に耐えきれずに引き起こされていたと推測できる。
アーサーとしての彼は、逆説的に「信用できる語り手」であったのだ。

抑圧は精神疾患という形で表出していた。
その原因をつくったかもしれない母親を殺害したーーあくまでもアーサーの主観においてだがーーことにより、薬の服用なしに発作が沈黙する。
その後、アーサーは同僚であったランドルを殺害する。突然に感じられるこのシーンだが、理由づけはともかく、アーサーが暴力に取り憑かれているような印象を受ける。
抑圧から解放されたアーサーは、トーマス・ウェインと同じように、当然のように力で他者を圧倒するようになる。アーサーにとってゲイリーを笑い者にしていた対等な立場のランドルは殺され、ゲイリーが野放しにされるのは、力を行使するまでもなく見下していたからだろう。

ここで、今まで観客に提示されてきた類型的な"社会的弱者の悲劇"は幕を閉じ、いよいよアーサーはジョーカーへと転身して街に現れる。
室外の階段でゆらゆらと踊るシーンは、やはりこの映画を象徴している。
これまで弱者の役割を果たしてきた者が、暴力によって強者の役割に立っているからだ。階級社会という階段をあざ笑うように降りてゆく姿は、まさにジョーカーの誕生にふさわしい。決定的なカタルシスがここにある。

ジョーカーとしての確固たるアイデンティティは、"人生は喜劇"という認識だ。
アーサーとして抑圧に苦しんでいた彼が言うからには、シニカルな意味合いであることは間違いない。ティアーズ・クラウンが強調されたメイクから、かつての自分を笑い飛ばす意味も含まれていると察せられる。
自虐で笑い者になる、弱者を笑い者にする、滑稽に胸を痛める自分もいる。小市民的な感覚を残したまま彼は狂人となった。

ジョーカーはこの後、警察に追われるが、地下鉄で多数のピエロのデモ集団によって追手から逃れる。
先に触れると、最後の台詞の解釈によっては、このピエロ集団が虚実どちらなのか判断できなくなるのだが、それはあまり重要な問題ではないように思える。
ジョーカーにとって"人生は喜劇"であるから、ピエロのペルソナはむしろ素顔の、普通の状態になっている。
道行く人々も同じような仮面をしている状況が虚実どちらだろうと関係がない。彼らはジョーカーを即席のヒーローのように扱う。
誰かを悪だと裁き、自らの正義を信じる。そしてその価値判断は、多くの場合、ヒーローのように祭り上げた誰かに仮託される。
だが、ここで仮託されるのは、固有の顔を捨てたジョーカーだ。それは誰であろうと代替可能であることを示唆している。

この場面ですでにジョーカーは観客からの共感を得られない狂人となっている。その代わりに、狂人であるジョーカーの誕生に胸を踊らせる私たち観客を戯画化したピエロの集団が現れる。
なぜ彼が堂々と街を闊歩し、人混みに紛れ込んでみせることが出来たのか。

大衆が、私たちが、彼を嬉々と迎え入れたからだ。抑圧に苦しみ憎悪を滾らせるアーサーに感情移入することよりも、ジョーカーの存在を歓迎する大衆と同じ心理でいることの方が真に恐ろしい。

ジョーカーにとって笑いは暴力だ。
障害の発作もそうだし、それを笑う人の悪意、彼に暴力を振るう者の笑顔、そして「Smile」の呪い。マレーを番組収録中に殺害するのも、ジョーカーにとっては喜劇の延長線上にある。
大衆が求めるものを映すTVの中で公開殺人を行ったことにより、暴力は街中へ一気に感染してゆく。

最後の台詞に関して、個人的には、直前のシーンにかかっている意味合いが強いと解釈している。
門を隔てて交わらなかったブルース・ウェインとアーサーだったが、ジョーカーが引金を引いた暴力の拡大は、斜めの方向、つまり上層階級のウェイン家に手をかけるまでになった。

ここで自警的な暴力を振るうバットマンとジョーカーが鏡写しにされる。
しかし、父の権力を目の当たりにしてきたブルースからしてみれば、暴力は権力と同義になる。そこに躊躇いはない。憎悪を喜劇に変換する過程など彼には必要がないからだ。
だからこそ、自らの正義に従って暴力を振るうヒーローになり得る
アーサーにとって手の届かない幸福の象徴のように捉えていたウェイン家の子供までも、自分と同じ道化に染まるのだ。

冒頭のシーンで、本来弱者である子供達にアーサーがリンチに遭っていた。毒を持って毒を制すならば、その毒は自らにも帰ってくる。ジョーカーは来るべき悲劇の再来を予期していた。
精神異常者として境界を引くカウンセラーは、当然、彼に殺されるだろう。ジョークが通じない相手には暴力で圧倒しなければ対等になれない。この強靭な喜劇に、真に対等に並ぶのはバットマンの悲劇しかない。
だが、彼はジョーカーの理解者では決してない。誰にも理解されない、ヴィランとしてのこれからの道程。キリング・ジョーク



本作を鑑賞中は「社会的弱者の復讐劇」という枠にはめてしまっていた為、予定調和しか起こらないというか、アーサーが順当にジョーカーになってゆくのを見守っている感覚だった。そこに楽しみも戸惑いもなかった。
本当に水を飲んでいるようで、正直優等生的に作られた凡作と片付けてしまおうとさえ思った。

そこで、前情報として聞いていた先入観を一度取っ払って考えてみた。なので、定説に組み込まれている先行作品からの影響や現代性に関しては、自分の中でこの映画を狭めてしまうものだったので取り除いた。
とりあえず縦軸、横軸で物語を解釈したら面白かったものの、ほとんど感情移入しなかった一度きりの鑑賞を頼りに書いたので、縦軸の流れにみんなどれほど共感したのかよくわからない。

また、アーサーの出自をうやむやにした演出をみると、横軸の物語にいくらか比重が置かれているように思える。脚本を離れて見える画面上の演出や、最後に『ダークナイト』シリーズ(2005-2012)へ繋げる構成なので、深読みのし過ぎとは思いたくないが、もっとはっきりした論拠がないと断言できないだろう。

先入観はともかく、なにより鑑賞中に感動がかけらもなかったのが気になった。思い入れを持てなさそうな本作にここまで考えたのは、それが一番の理由だ。ヒップホップと関わりの深い土地で撮影されたというのも気にかかった。

この懸念を重ねていくと、程度の差はあれ、自分の現実の世界観と本質的には変わらないからではないか、という一先ずの答えが出た。なんとも恐ろしい話だが、ヒップホップの世界で歌われている価値観に共感するようになっている今、この捉え方もあながち間違っていないように思う。

少なくとも私にとって、本作は「近すぎて面白みのない悲劇、俯瞰視しきれない喜劇」だった。同時に、自分にとっての喜劇がなにより尊いものであるのだと再確認した。
最高の喜劇は、フィクションにおける「神の視点」を最大限に活かして、すべてを笑い飛ばすことだ。そういう意味では、人間味に溢れた本作のジョーカーは、最高に現代的な映画だった。

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