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農園から学んだ、ワンオペのこと

自宅近くの農園の一角を借りて、有機・無農薬で野菜を育て始めてから、ちょうど1年が経った。とても小さな区画だけれど、それでも1人では消費できない量が採れるから、1年目は友人と3人でシェアすることにした。

農園は、私の自宅近くだったので、管理人的に足しげく通った。普通の仕事なら、数週間後でも数ヵ月後でも、予定を入れて、きっちり時間通りに事を進めることができるけれど、畑仕事は違う。

初めてのことで、いつ何がどう展開するのかわからないことに加えて、天候にも左右されるし、何より相手は生き物。こちらの思い通りにいくわけではない。

だから、行って、様子を見て、その日に必要な作業をする。それしかできない。先々のグーグルカレンダーに件名とアジェンダを入れて、招待することはできない。

そんな状況だったので、わざわざ電車や車で時間をかけてくる友人にとっては、いつ、何をしに行けばよいか分からなかったと思う。私にも分からなかったのだから。

大根が「もう抜いて」と言ってるよ、とか、わかりやすい状況は伝えられるけど、その間の名もなき作業についてはなかなか状況を伝えにくい。

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そんなこんなで、私は分からないなから頻繁に通い、友人は分からないから足が遠のいてしまう。

そうしているうちに、私の中で野菜との向き合い方が変化してきた。最初は、自分の手で、安心安全な野菜を育てて食べる、それが目的といえば目的だった。けれど、実際それは過程のほんの一部で、ほとんどの時間は野菜たちの成長とともにある。

小さな種からひょこんと若葉が生まれる。ひ弱で頼りなかった苗がいつの間にかたくましい青年の姿になっている。虫がわいたり、雨風に打たれたり。ある時きれいな花が咲いて、野菜のミニチュアみたいなものが姿を現している。そんな絶え間ない変化に感動しているうちに、自分は命あるものを相手にしているのだという自覚がむくむくと芽生えてきた。

命あるものを相手にしているのだから、自分の都合を優先にしてばかりはいられない。命あるものを相手にしているのだから、ちゃんと知識もつけていかなければならない。

そんなことになるとは、最初は思ってもいなかった。野菜と何度も接する中で、芽生えてきたものだ。でも、友人はまだ、スタート地点にいる(ような気がしていた)。自分が変化している分、乖離が生じている(ような気がしていた)。

一人で世話をする→愛情と責任感が生まれる→知識と経験が増える→さらに世話をする→・・

というサイクルを回っていく私と、最初の「お世話をする」の入口にどう入ればよいか分かりかねている友人。その間に大きくなる溝。

その溝を感じながら、一人でほとんど作業して大変だ!分担して!という気持ちよりも、「命あるものを相手にしている」という感覚を共有できない(と思ってしまっている)悲しさの方が大きかった。


あるとき、畑を出て、隣の保育園の前を通りながら、これ、もしかして(あくまでも、もしかして)ワンオペ育児の問題と似ているのかも、とふと思った。

育児を一人でやっていて大変だ!分担して!という気持ちよりも(もちろんそれはあるに違いないけど)、「命あるものと向き合っている」という自覚が強い人と、そうでない(と思われる)人との間に生まれる溝。

命と向き合うことで、愛情や責任感が生まれ、知識や経験が増えていき、子供や育児についての考えが大きく変化していく人と、ずっと変わらない(ように見える)人との間に生まれる溝。

そして、一度生まれた溝は、放っておけばどんどん大きくなってしまう。命と向き合っている方は、時間が経つほどスタート地点から遠ざかっていくのだから。


などと、育児の経験のない私は、勝手な想像をしながら。畑は2年目のスタートを切り、共有するメンバーも変わった。管理人的な立場は変わらなくても、精神的なワンオペを脱し、ともに愛情を注ぎ、ともに成長に感動し、ともに責任感を分かちあえるように、自分自身も変わっていけたら、と思う。



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