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やりたいことが「わからない」は、ただ「認められない」だけかもしれない

やりたいことがわからないんです、という相談を受けることがある。

大学卒業して間もない人もいれば、10年も20年も社会人として(少なくとも傍から見れば)華やかに活躍してきた人もいる。そんなことを考えているなんて、意外すぎる人もいる。

もちろん、そんな相談を受けたところで、「あなたのやりたいことはこれですね」なんてポケットから出して解決できるわけでもない。

みんな、決してモチベーションが低いわけではない。むしろ情熱はあるけれど、それを向ける先がわからない。何かに懸命でいたい、という強い気持ちを持っている。

そんな声を、あちらからもこちらからも聞いているうちに、なぜ人は(自分も含めて)そういうことになってしまうのかと疑問が湧く。

小さな子供は、自分のやりたいことに純粋だ。1歳になる甥っ子は、仕舞ってあるものを見つけたら、片っ端から取り出す。なくなるまで続ける。高級料亭だろうと、かまわない。大人が慌てて止めようとしても、ほとんど無駄におわる。誰が何と言おうと、やりたい。やる。それだけなのだ。

お腹が空けば、食べる。眠たければ、寝る。泣きたければ、泣く。何がやりたいかわからない瞬間なんて、一秒たりともないように見える。やりたいことだけを、やっている。

それが大人になると、わからなくなってしまう。一体、自分は何がやりたいのか。

いろいろな人の話を聞いているうちに、はたと思った。これはもしかして、「わからない」のではなくて、「認められない」のではないかと。

やりたいこと。それは、心が知っている。でもすぐに、そんなの無理だとか、くだらないとか、恥ずかしいとか、大したことないとか、どこからか消防隊が飛んできて、あっという間に、その火を消し去ってしまう。消火終了。わたし、やりたいことがわかりません。

だから、まずは、自分が認めることなんじゃないかと。

どんなにちっぽけでも、どんなに年不相応でも、どんなに夢物語でも、どんなに照れくさくて人には言えないようなことだとしても。自分で、その存在を否定しないこと。恥ずかしくて消してしまいたい、ばさっと水をかけてなかったことにしたい、という衝動を抑えて。ただただ、自ら燃えようとしている火を、そこにあるいのちを、認めること。受け入れること。優しく、見守ること。

そうすれば、その火は、やがて心いっぱいに広がって、自分を明るく輝かせてくれるかもしれない。そして、私の心を超えて、私のまわりの人たちを、私がいるこの宇宙を、ほんの少しだけ明るく照らしてくれるかもしれない。




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