俳句は言葉で言葉を超える
オンライン会議ツールで、人と会話をすることが当たり前になった。時々、この人と直接会ったことあったけな、と一瞬迷うくらい、画面越しに会うことと、直接会うことが、脳内でいっしょくたになりつつある。
何が同じで、何が違うのか。
たとえば視覚。画面で見ているのは、その人の姿ではなくて、その人の姿が電子信号となったもの。それを見ている。
たとえば聴覚。その人が空気を震わせる波動を聞いているのではなくて、その人の声が電子信号となって、それが震わせる波動を聞いている。でも結局、それは波動だから一緒なのだろうか。
いずれにしても、画面越しに届くのは、その人の姿や声や、その他いろいろなものの「情報」に過ぎない。情報に変換される前の「その人の姿や声や、その他いろいろなもの」の「そのもの」ではない。「そのもの」の中に、情報に変換されえない、何かがきっと詰まっている。
そして、俳句。
俳句は言葉でつくる。言葉あるいは言語とは、一般的には、情報伝達するためのもの。言葉ではないものを、言葉に置き換えて、情報として他者に届ける。そのための、媒体。
けれど、俳句は情報伝達ではない。説明を嫌う。
情報伝達という役目を捨てた言葉。それによって、情報に変換される前の「そのもの」に迫り、「そのもの」を「そのもの」として伝えるようとする。
だから、俳句は言葉であって言葉ではない。言葉で言葉を超える。そんなことを、オンラインとオフラインの世界を行き来しながらふと思った。
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