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やりたいことを仕事にする、だけがたぶん全てではない

ちょうど1年前、仕事とお金と幸福の関係について考えた。いま、その続きに立っている。ここでの気づきを書き留めておきたい。

「やりたいことを仕事にする」を理想的な働き方と考える人は少なくない。好きなことをやって、やりがいも感じて、誰かに喜ばれて、お金になる。そんな働き方。

私自身も、ここ数年間それを追い求めてきたのだと思う。割がいい仕事かどうか、儲かるかどうか、よりも、「やりたいか、やりたくないか」が仕事を選ぶ一番の基準になっていた。

やりたくないことを嫌々やるより、やりたいことを嬉々としてやる方が、パフォーマンスが上がって、その結果として良い価値も出せて良い仕事(収入)にもなるはずだ。そんな仮説を検証するような気持ちで。

実際は「やりたいか、やりたくないか」というのは、白か黒かできっぱり分けられるものばかりではなく、濃淡のグレーが混ざるのだけれど。それでもできるだけ白に近いほう、そこにちゃんと白が存在しているものを選んできた。

本当にやりたいことは、お金をもらわなくてもやる

けれど最近、やりたいことと仕事の間に、亀裂が生まれるのを感じるようになった。やりたいことをやっていても、仕事は仕事。お金をもらうなりの責任がある。価値があると言う必要があるし、あると思ってもらう必要がある。

そんなふうに「ちゃんと仕事をする」ことに意識をとられているうちに、「やりたいこと」は「仕事」と呼んでいるものからするっと飛び出して、別のところを彷徨い始めた。

結局のところ、やりたいことは、お金とは関係がない。お金をもらっても、もらわなくても、やる。そんな当たり前のことに、いまさら気がついただけなのかもしれない。

それは、やりたいことと仕事の一体化に失敗した、というよりも、「やりたいこと」は仕事になったとたんに、様相を変えざるを得なくなる、ということかもしれない。少なくとも、「やりたいこと」が「やりたいこと」のままで仕事になる、という達人の域に達するまでは。

「やりたいこと」を「仕事」としてやり始めると、仕事であるがゆえに必要なことが混ざり込んできて、「やりたいこと」の純度が下がる。そして、純度の高い「やりたいこと」は、また別の場所に居場所を求める。しばらくは、それを繰り返すのかもしれない。

仕事は「ジョブ」と割り切ったほうが、楽な時もある

やりたいことと仕事が分離していくと、そこに一種の辛さのようなものが生まれる。やりたいことを仕事にしているはずなのに、力が湧いてこない。やりたいことを仕事にしているはずなのに、他のことに関心が引き寄せられていく・・。そんな矛盾に、自分が答えられなくなってくる。

そんな時は割り切って、仕事は「ジョブ」だと捉えてしまうほうが、楽になったりもする。そんなことにも気がついた。やりたいことと仕事を力づくで引っ付けるのではなく、あくまで仕事は仕事としてやる。そこに少なからずやりたいことの裏付けはあるけれど、仕事は仕事。払ってもらったお金に見合う価値を生みだすために努力をする。やりたい、やりたくない、という心の問題はほどほどにして。

それは決して悪いことではない。仕事をジョブと割り切ることで、「やりたいこと」はその純度を保つことができる。ジョブによってちゃんと収入を得られていれば、「やりたいこと」がお金にならなくても焦らないし、むしろ「お金をもらっているから」というプレッシャーがない分、純粋な姿でいられたりもする。

やりたいことと仕事は、揺らめきながら、くっついたり離れたり

やりたいことと仕事の関係は、きっと固定的なものではない。それぞれが動くし、その関係も動く。だから、やりたいことと仕事が、ある時ぴったり重なったように思えても、それは必ずしも究極のかたちでも、最終のかたちでもないのだと思う。

やりたいことが仕事になる。それはとても聞こえが良くて、幸せそうな響きを持っている。でも時に2つを分けることで、もしくは「分けてもいい」と思うことで、健全な関係を保てることもあるのかもしれない。

それがいま、仕事と収入の幸福について、思っていること。

それでもいずれ、やりたいことと仕事が、ずっと寄り添ってきた老夫婦のように、仲良く手を寄り添って同じ歩幅で歩いている、そんな関係になることを、やっぱりどこかで願いながら。

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