俳句は「透明な自分」から生まれる
俳句は、自分の内なるものを、外に向けて表出させる「表現」のひとつ。
とはいえ、自分の中から溢れ出すエネルギーや感情があって、そこに端を発するというよりも(もちろんそういう俳人あるいは俳句もあると思うけれど)、自分の外からやってきて、自分を通ってまた外に出て行く。そういう性質が強いように思う。
そして、そのためには強い自我を持った自分であるよりも、「透明な自分」であることが、大切な気がしている。
正岡子規の「写生論」、高浜虚子の「客観写生」を思えば、今更ながら、かもしれないけれど。
深見けん二は虚子の言葉として次のように述べている。「客観写生とは自然を尊重して具象的に表現すること。まず観察することが基本ですが、それを繰り返していると、対象が自分の心の中に溶け込んできて心と一つになる。そうなると心が自由になり、最も心が動くようになる」(詩歌文学館賞受賞のことば)(Wikipedia)
いま参加している俳句誌『晨』の創始者で、哲学者でもあり僧侶でもあった故大峯あきら氏は、こう表現されている。
俳句は自然と人間との交信の詩に他ならない(花月のコスモロジー)
自然の声を聞いて、作り出されるのが俳句だと。さらに、この「聞く」については。
そこに桜が咲いているということは桜が自分にものを言っているということです。蝶々が飛んでいることは蝶が僕にものを言っている。秋風が吹いているということは、秋風がものを言っている。それが「乾坤(けんこん)の変」だと芭蕉は言うのです。それにこたえることが詩なのだね。
ーー中略ーー「ものが言っていると思う」じゃだめなんだ。「ものが言っているように見えるなあ」と、そんな程度じゃだめ。本当に言っているんです。本当に言っているんですよ世界は。ものが本当に語っていることが、世界があるということなんですよ。そこが大事。
(中村雅樹氏による引用。『晨』第223号 p69)
「聞く」というのは、比喩でも何でもなくて、文字通り「聞く」なのだと。さらに。
『言葉というのは、こちらから掴むものではなく、言葉のほうが人間を掴むのである。言葉に掴まれる人を詩人と言う。そして、言葉に掴まれることが人間の存在理由であり、最後の目的なのだ』という主旨のことを、ドイツの詩人ヘルダーリンの言葉を引用しながら話されている。(動画「俳人インタビュー大峯あきら「晨」代表 Vol.1」)
(実際にお会いしたことがないので、こうした動画が残っていることはとても有難い)
偏見や先入観をなくし、一瞬一瞬、真っ新な気持ちで、大いなる自然に、世界に向き合う。言うは易しの代表例みたいなものだけれど。
同じく、氏の言葉。
人間だけでなく、世界の中のすべての物は季節の内にある。季節とはわれわれの外にある風物のことではなく、われわれ自身をも貫いている推移と循環のリズムのことである(「季節のコスモロジー」『懐徳』60号、1991年)
そこにはもはや、自分と自然、自分の内と外を分ける垣根すら取り払われている。すべては一体化している。自然が、宇宙が、自分を貫いている。
それこそが、冒頭の「俳句は自然と人間との交信の詩」の境地なのかもしれない。
そこにいるのは、内側にエネルギーや感情が渦巻く自分ではなくて、透明で、開かれた自分。
ーーー
リンカーンは「もし8時間、木を切る時間を与えられたら、そのうち6時間を私は斧を研ぐのに使うだろう」と言ったという。
「もし8時間、俳句を作る時間を与えられたら」とするならば。「そのうち6時間を自然の声に耳を澄まし、その声を聞くのに使うだろう」となるだろうか。いや、開かれた、透明な自分であるために、6時間を使うのかもしれない。
8時間は、おそらく一生。俳人への道は、果てしない。
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