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何を書くか、より、何を書かないか?

中高生のころの教科書で水墨山水画を観たとき、そこに広がる「余白」に目を奪われたことを、いまでも覚えている。(横山大観の画だったような気もするのだけど、記憶違いかもしれない)

描かないという、描き方。この逆説が持つ、圧倒的な力。

「省略の文学」とも言われる俳句には、それが特に問われるように思う。17音という小さな場所の中に「何を書くか」、と同時に「何を書かないか」。書かないことで、17音の世界を大きく広げていく。

俳人 中村雅樹さんも、このように書かれていた。

省略することは、いわば一句の純度を上げるようなものです。言葉のそれぞれの力を十二分に発揮させ、相乗効果によって一つの世界を打ち立てる、俳句とはそのような文芸のように思えてきます。・・(略)・・
俳句にとって「省略」は、単なる方法やテクニックに収まるものではなく、それをなくしては俳句は俳句たりえないのでは、とわたしは考えています。
(「晨」令和3年9月号)

ちなみに、(略)のところには、「どう詠むか」というテクニックや技術はもちろん必要だけれども、本質は「何を詠むか」だということを書かれている。

言葉と言葉の間を埋めずに、十分なスペースをとる。すると、言葉が伸び伸びと本来持っている力を発揮して、そのスペースを満たし、さらに広がる。

それは、言葉の力を信じていなければできないし、読み手の力を信じていなければできない。不安が、スペースを埋めようとする。説明を増やそうとする。散文的な文章の場合は長くなり、長くなれない俳句は、どんどん言葉が詰め込まれ、やがて輝きを失っていく。

十二分に力が引き出された言葉は、一つ一つが、その外側の世界を照らし、そこに書かれなかった言葉も存在として立ち上がらせることができるのだろう。そして、それぞれの力が響き合って、無限の豊かな世界をつくりあげる。

と言ってはみたものの、なかなか、できることではないけれど。


さて、「何を書かないか」問題は、「何を言わないか」「何を持たないか」「何をやらないか」など、いろいろな問題を呼び起こさせる

たとえば断捨離。何を捨てるか、すなわち「何を持たないか」。本当に必要なものだけを残し、それに十分なスペースと活躍の機会を与える。すると「持っているもの」一つ一つが生き生きと輝き、生活全体が豊かになる。

たとえば、活動の選択。人生という限られた時間の中で「何をやらないか」を考える。すると、「やること」は、さらに時間とエネルギーが注がれ、一つ一つはさらに輝きを増す。それは人生を豊かにする。

本当にそうなのかは、わからないけれど。

一つ言えることは、もう一度ひっくり返して、「何を書かないか」が大事なのは「何を書くか」が大事だから、ということ。ここを取り違えては、きっといけない。

「何を持たないか」を考えるのは「何を持つか」が大事だからで、「何をやらないか」を考えるのは「何をやるか」が大事だから。

この裏表の緊張関係、あるいは良好な関係があって、はじめて双方が意味を持つ。

何を書いて、何を書かないか。何を持って、何を持たないか。何をやって、何をやらないか。

それはまず、自分を信じる、ということから始まるのかもしれない。書いたもの、持っているもの、やっていること、その一つ一つの力を引き出せるという信頼、そして十二分に力を発揮してくれたそれらによって、自分は世界は満たされるのだ、という信頼。


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