マガジンのカバー画像

俳句の森を歩く

19
俳人への道を歩きながら、見つけたもの、出会ったものを記録しています。
運営しているクリエイター

2021年9月の記事一覧

この時期の月は、1日だけの名前を持つ

昨日(9/21)は、満月と中秋の名月が重なって、タイムラインは月の写真であふれた。近くの公園まで月見の散歩に出てみると、結構人が出ていて、月を眺めるでもなくおしゃべりをしていた。そんな人たちを、月が見ていた。 さて、この一夜のためだけに、いくつもの季語がある。古来から、日本人がいかに、この時期の月を愛でてきたかを感じさせる。 月を指すのが、名月(望月、満月、十五夜、芋名月etc)。この月が出ている夜を指すのが、良夜(望の夜)。雲に隠れていれば、無月。雨が降ったら雨月(雨の

坐禅と俳句 ~「いま、ここ」にある光

はじめて、オンライン座禅会に参加した。 お寺の匂い、床と座布団の感触、外のような中のような曖昧な空間、お坊さんの背筋や声、どこからか集まった名前も知らない人たち。昔は、そういうしつらえの中に身を置くことも、「坐禅」の一部だと思っていた。 でも、オンラインはオンラインで、空間は離れていても、お坊さんと自分だけ、他に何も気にすることがなく、それなりの良さがあった。 坐禅。「いま、ここ」にしかない身体と、「いま、ここ」ではない時間と空間をさまよう心。その心を「いま、ここ」にと

何を書くか、より、何を書かないか?

中高生のころの教科書で水墨山水画を観たとき、そこに広がる「余白」に目を奪われたことを、いまでも覚えている。(横山大観の画だったような気もするのだけど、記憶違いかもしれない) 描かないという、描き方。この逆説が持つ、圧倒的な力。 「省略の文学」とも言われる俳句には、それが特に問われるように思う。17音という小さな場所の中に「何を書くか」、と同時に「何を書かないか」。書かないことで、17音の世界を大きく広げていく。 俳人 中村雅樹さんも、このように書かれていた。 省略する

俳句の難題

俳句誌『晨』の創始者で、哲学者であり宗教学者であり住職でもあった、故大峯あきらさんの動画に魅せられている。 詩人の言葉、僧侶の言葉、哲学者の言葉が織りなす世界は、とても豊かで深い。直接お話を聞けなかったのが残念でならないけれど、まるでそこに居るかのような動画が残されていることは、本当に有難い。 その中で、こんなことをおっしゃっていた。 自分が見てもいないものは、作れないでしょ。嘘じゃないですか、そんなもの。感じていないじゃないですか。テレビや映像を見て作るなんてけしから

俳句は「透明な自分」から生まれる

俳句は、自分の内なるものを、外に向けて表出させる「表現」のひとつ。 とはいえ、自分の中から溢れ出すエネルギーや感情があって、そこに端を発するというよりも(もちろんそういう俳人あるいは俳句もあると思うけれど)、自分の外からやってきて、自分を通ってまた外に出て行く。そういう性質が強いように思う。 そして、そのためには強い自我を持った自分であるよりも、「透明な自分」であることが、大切な気がしている。 正岡子規の「写生論」、高浜虚子の「客観写生」を思えば、今更ながら、かもしれな

古池には、何匹の蛙が飛び込んだのか ~俳句の翻訳について考える

少し前、「俳句は(本当の意味で)翻訳できるものか?」と問われ、そのことがしばらく頭に残っている。 最も有名な句の一つを例に、考えてみたい。 古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉 これは、様々な人が、様々な訳を残している。たとえば、この2つ。 Old pond — frogs jumped in — sound of water. ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)訳 The ancient pond A frog leaps in The sound of the water