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「イヤだ!」という自由

なんということでしょう! なんなんということなのだ!!
このブログめっさ更新してない案件発生中!!!!

はい。ということで、最近もクソ忙しく (失礼)、まともに記事を上げることのできてないイマンモです。
なんとかヒルネットの活動記録は上げているものの、そちらを書いているとこちらまで手が回らないというか、日月の休みをしっかり休養しないと年齢的にもそろそろ一週もたないというか最近旅行いったりしてたせいだったりとか諸々のせいでゴニョゴニョ。。。。
気がついたら前回の記事夏休み終わりやんけーい!!!

ということで、今週は覚悟を決めて、ヒルネットの活動記録も休みにして、こちらの記事を書こうと決めて日曜書こうと思っていたら『すずめの戸締まり』とか家族で観にいっちゃったせいで、今日、今、ノートPCに向かっているわけです。

ということで今回のお題。それは「自由」あるいは「自主性」という問題について。

うわーめっっちゃ難しいテーマ出してきた。いや出しちゃった。
うーん、でもこのブログは僕自身がモヤつき考えていることを答えも出ぬまま、しかし文章として披露することで、地球の片隅で読んでくれているかもしれない誰かと問題意識を共有することを目的としている(そうだったのか?)。
ということで、考えたところ、今自分がモヤつき考えているのが、こういうテーマ。なんだから仕方がない。

と言って、もちろん、哲学的に「自由」の問題を考えようなんてことをするわけじゃあない。
(哲学的問題としての「自由意志」の問題について知りたい人は、「自由意志」「因果的決定論」「物理主義」などでググるべし)


閑話休題。
フリースクールをスタッフとして運営する者としては、場に集う子どもたちの「自由」「自主性」という問題について、いつも既に考えないわけにはいきません。いや、フリースクール云々関係なくとも、子どもたちと向き合う「仕事」をしている人間であれば、必ず考える必要があると思います。

子どもたちの「自主性」について。
子どもたちの「自由」について。

ちょっとした話から考えてみたいと思います。
とある物事を、とある子どもにすすめたり、あるいは頼んだりしたときの話です。
その子が答えます。「イヤだ!」
それだけ。理由も何もなく、ただイヤなんだ、と。
もともと、あまり多くを喋らない子です。時々、理由もなく不機嫌だったりも、する。
その子に別のことを頼みます。答えはやっぱり「イヤだ!」。
理由は? イヤだから。

「一緒に本読まない?」「イヤだ」
「一緒にゲームしようよ」「イヤだ」
「公園まで散歩にいってみようと思うんだけど」「イヤだ」
「もう、そろそろ帰ろうよ」「イヤだ!」
ま、正直、困りますよね。
困りますが、この「イヤだ!」を、僕はとてもとても大切な言葉だと考えています。
なぜでしょうか。
なぜなら、それは個人の主体的な意志を示す最初の一歩となる言葉だからです。

私たち大人は、子どもたちに何事かを強制することが大好きです。
「勉強しなさい」
「ゲームはするな」
「静かにしろ」
「ご飯を残すな」
何でもいいですが、いろいろなことを子どもたちに「指図」します。
それはもちろん、大人にとっては必要なことだったり、子どもの将来や何かを慮ってのことだったりします。だから、そんな強制が不必要だと言うわけじゃない。
でも、もし子どもに「自主性」を期待するなら。
子どもたちの「自由」な意志を尊重するなら。
「イヤだ」という言葉を決して無碍に扱ってはいけないと思います。


「自分の子どもに自主的に勉強にする習慣をつけさせたいんです」
ちょっと昔、それこそヒルネットの活動をまだ始めておらず、主にV-netで個人レッスンのみを行っていた頃(いや、今も行っていますが)、けっこう多い相談が上記のようなものでした。

でも、これは実はなかなか難しい相談なのです。

なぜなら、そのお子さんには「自主的に勉強する習慣」がないからこそ相談にいらっしゃってるわけなんですが、じゃあそのお子さんが何で自主的に勉強できないかというと諸々理由はあるにしろ概ね過去から現在にかけて「勉強はやらなきゃいけないもの」という他律的自律的な観念のもと「強制」されてきたということが理由として大きい。

もちろん、本来、何かを学び知り考えることは楽しいことです。
何かしら自分を高めようとすることは、一つの生きる「意味」だと思います。

しかしながら、他律的な「強制」が働くところに、そんな学びの「楽しみ」は生まれない。生まれにくい。

子どもに「自主的に勉強にする習慣をつけさせたい」という願いには、暗黙のうちに「子どもに勉強をさせる」という強制性を含んでいます。
そのような「構え」を手放さないうちは、なかなか学びの「楽しさ」を子どもも見つけられない。
だから、おそらく本当は、「学ぶ楽しさを一緒に見つけよう」と思って接することが大切なのでしょう。
そうでなければ、その子はきっと、はっきり激烈に、「イヤだ!」という言葉を発することになります。


と言って、僕は世の中の「大人」たち、お母さんやお父さんたちを何か「啓蒙」したいとか何とか思って、こんな文章を書いてるわけじゃあないんです。
最初に書いた通り、これは僕自身がモヤっていることを書くブログです。
つまり、子どもに何かを強制するのが好きな「大人」の中に、ひょっとしたらこの僕自身も含まれるのではないかと思ってこの文章を書いています。

これも、譬え話です。
ヒルネットでは、月末に一回、奥多摩古民家をお借りして「焚き火の会」を行っています。
この場所は、お借りしているわけなんですから、帰る時は、きっちりキレイに元の状態に戻して帰る必要がある。当たり前ですね。
じゃあ、帰る際の清掃は誰が行うのでしょう? スタッフでしょうか? それは何だかおかしい。ヒルネットの参加メンバーは「お客さん」じゃないんですから。

じゃあ、みんなで片付けよう。これは真っ当な考えです。
いや、でもちょっと待ってよ。誰かが言います。僕は今日、薪を山にいっぱい拾いにいった。焚き火の火起こしもした。そのとき〇〇君はスマホいじってただけだったじゃん。
別の誰かが言います。焚き火できたなら良いじゃん。あたしなんか今日、料理班だったから、ずっと料理してて焚き火にすらまともに当たってないのよ。
なるほどなるほど。
じゃあ、他のメンバーでやるかい?
ところが、ここで1発。
「イヤだ!」

現実には、こんなモメ事は起こってません。似たような状況から、僕がいま勝手に考えたトラブルです。
でも、こんな「イヤだ」は自分勝手でしょうか? 単なる「わがまま」と切り捨てて良いものでしょうか。
でも、じゃあ薪を拾いに行った子は清掃を免除されるべき? 料理していた子は?
いやいや、そんなの関係なく、「みんな全員でやろうぜ!」と声がけしてみれば?
「イッヤッダ!」

こんな「イヤだ」も大切にすべきでしょうか。
その通り。
少なくとも僕は大切にすべきだと思います。

大切にするというのは、この場合、別に「じゃあイヤな子は清掃しなくても良いよ」ってことではありません。
何とか話して一緒にやった方がいいに決まってる。
でも、やっぱり本当に「イヤ」なら、やらなくても良いと思います。僕は。
周りの子からは文句も出るでしょう。それが原因でトラブルにもなる。その不利益は被らざるをえない。
でも、「イヤだ」「やらない」というのが、その子の意思で決めたことなら、それを無理に強制するのは、なんかやっぱり違うと思う。
まして、そこで「みんなで決めたルールだろ」なんて学校みたく「強制」するのは絶対に、「イヤだ!」です。

僕たちは強制と同じように、「秩序」が大好きです。
何事も、スムーズに、順序よく進んでほしい。
みんな和気藹々と、トラブルなく、整然とあってほしい。
人の迷惑になるような、つまり「場」の空気を乱すようなことはしてほしくない。

上の掃除の話では、「イヤだ」という子は、きっとそうした「秩序」をいろんなところで乱してきてしまった子でしょう。
じゃあ、そんな「秩序」を守るために、その子を排除するのか? 絶対に、あり得ません。
「秩序」を守るよう「強制」するのか? やっぱり、あり得ません。

世の中一般では、こんな「イヤだ」は我儘だ自分勝手だと叩かれるかもしれない。
ですが、繰り返せば、その拒否の言葉は、子どもたちの最初の、「強制」を跳ね返す、自分の自主的な意志の発露です。勝手に出来上がっていた「秩序」の外に出るための、主体的な行動の出発点になる言葉です。

「イヤだ!」と何かを拒否することは、たしかに「良いこと」ではないのでしょう。
ですが、僕は本当に子どもの自主性を尊重するなら、やっぱりその態度を大切にすべきだと思います。
皆さんは、どう思われますか?

それでは、それでは。


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