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桐朋学園芸術短期大学~今村花の4年間の成長日記~

桐朋学園に入学して間もない頃、早々に進路を間違えたと将来が一瞬で不安になったのを今でも鮮明に覚えている。
石垣島から上京した私には当たり前に同郷の人はおらず、高校演劇や子役から芝居をしてきたパワフルな同期たちに食欲を無くし、1週間ご飯が喉を通らなかった。
当時のめざましテレビのテーマ曲、西野カナの『がんばれ私がんばれ今日も~』が聞こえると胃が痛くなり、毎朝電子レンジに映った自分にがんばれとひと言喝をいれて何とか学校に通っていた。

私が桐朋学園に進路を決めたのは高校3年生の9月。蜷川幸雄先生が名誉教授のすごい学校という認識だけでオープンキャンパスへ向かった。
もう1つ航空関係の専門学校へも行ったが桐朋学園のある仙川駅の商店街の雰囲気が良くて、ここを通って学校に向かう自分が想像できたから桐朋を目指すことにした(すごく直感的で危ない思考回路ッ)

そんなこんなで芝居をした事も見る機会もなかった私は1ヶ月だけ演劇部にお世話になり発声練習をしたりワークショップを受けたりした。
学校の教室のベランダで放課後、友達に芝居をしている動画を撮ってもらい赤面したり、毎朝6:30に登校し屋上でダンスの振り付けと練習をした。
ほぼ独学のなんの武器もない私はその2ヶ月後の11月に試験を受けた。
試験では台詞をど忘れし、空白の時間が30秒くらいあった。体感では3分くらいあったと思う。スポットライトの光が眩しかったのを覚えている。落ちたと思った。
受験後、即!もう一つの進路として迷っていた(もはや中学生から高校3年の夏まで本命だった)
CAやグランドスタッフを育成する航空関係の学校の受験票を書き、役者は諦めようと決心した頃、桐朋学園の合否通知が来た。母が学校に迎えに来たついでに通知を一緒に持ってきてくれた。
母がスーパーで買い物をしている間に駐車場に停めた車の中で封を開けた。
忘れもしない 合格 の文字。
訳が分からなかった。
これが桐朋学園生活の入り口である。

入学してからすぐに観た専攻科の公演は、三浦剛先生演出のATEC出演作品だった。
感動よりも先に、物語やキャラクターから出てくる難しい日本語を理解できない自分に酷く落ち込んだ。
日々の授業では演技経験者に囲まれ、右も左もわからなかった私はそんな人たちに自分の演技を見られるのが恥ずかしくて怖くて、先生の仰ることを理解はできても実践できない自分が悔しくて、毎日恥をかきに学校に行く気分だった。
次々と課題を抱えた私は、電車に乗り友達と楽しそうに話している大学生や、穏やかな表情で携帯に向き合う人たちをぼーっと見るたびに、普通の大学に行けばよかった。普通にお金を稼げる仕事を目指せばよかったと考えていた。
今思えば、どんな大学でもどんな仕事でも楽な事はないんだ、穏やかな顔で電車に乗っていたあの人も悩みや色んなものを抱えていたはずと分かるのだが。
と、ここまでは入学してから3ヶ月の話。

初めての演技発表会で
越光学長演出の『見よ、飛行機の高く飛べるを』の読み合わせ形式のオーディションで私は少しだけ役になることの楽しさを知り、本を深く読む事や、時代背景を調べる事、台詞の言い回し等、芝居にも勉強はつきものであり技術が必要なことを知った。
そう、恥ずかしながら私はテレビで見ていた俳優さんたちの芝居はニュアンスでできているものだと思っていたのだ。日常の動きや表情や話し方で芝居をすればいいんでしょ?リアルにできればいいんでしょ?と、、
その当時は本当に心からそう思っていて芝居を舐めていたわけではないが、今思うと相当舐めていたと思う。
そして、初めて"山森ちか"という役をもらった。オーディションの最後の方で1度読んだだけだった。
おてんばな役どころのちかちゃんを、私がもらえる訳ない。と思いながらも恥ずかしさを捨てて全力でやってみようと読んだら、皆んなが私を見て笑っていた。越光先生も笑ってくれたのを覚えている。とても嬉しかった。
台詞が少なくて目立たない役がいいと弱気になっていた当時の私の考えはこの出来事がきっかけで大きく変わることになった。

芸術科2年生
歌が苦手だった私はミュージカルコースに進んだ。
もともと歌から逃げたくて本科1年生までストレートプレイコースに進もうと思っていたのだが、信太美奈先生の「ミュージカルなんて外の世界に出たらそんな簡単に経験できるもんじゃないよ」という言葉がきっかけとなり、学生時代にしか経験できないなら1年間くらい、苦しくてもとにかく苦手に向き合おうと少しでも歌が好きになれたらいいと思い、ミュージカルコースに進むことに決めた。
2年生はとにかく楽しくて前向きに課題と向き合えている自分がいた。
歌が苦手だったはずなのに、ミュージカル唱法の授業が楽しくて、楽しんでいたらそれが評価されて気付いたら誰よりも多くの曲に出させていただいていた。
歌を研究することが楽しくて、下手なりに少しずつ進歩した姿を稽古で見せられるように毎日自主練習をした。
ダンスではどうしたらみんなの視線を集められるのか、うまい人を真似してみたり、自分から生まれる形を更に細かく分析してみたり、少しの角度の違いで見え方や雰囲気も変わる事を知った。

初めての試演会は三浦剛先生演出の『貴婦人の訪問』だった。
オーディション期間が本当に長かった。
7月から9月まで役が決まらなかった。
読み合わせから始まり、歌のオーディション、最終は主役の歌オーディションだった。
私は読み合わせと最初の歌のオーディションまでは主役候補4人の中に残っていた。自分が主役?無理無理、、と1年前の弱気な自分と初めての経験で舞い上がっている自分もいた。
最後の最後、主役の歌を1人で歌うオーディション。私を含め主役候補の4人だけが歌うチャンスをもらえた。私はそこで主役を落とされた。
そして私の代わりに主役候補にいなかった人が自ら名乗り出て、歌った。
そうして主役は私ではなく、その子に代わった。他の3人はそのまま主役として舞台に立った。自分の実力不足と努力不足に腹が立って、本当に悔しかった。キャスト発表の紙を渡されたあと、みんなからの視線が痛かった。その日の稽古は体に力が入らず空元気もできず、本当にひどい状態だったと思う。誰も私に話しかけなかった。
稽古後、もちろん落とされた理由は歌だと分かっていたが、三浦先生に「どうして私じゃなかったんですか」と聞いた。
やはり歌の実力不足だった。思わず涙が溢れて悔しくて悔しくて悔しかった。
苦手な歌と向き合うためにミュージカルコースに進み、歌う楽しさを知り、実力不足を突きつけられた。
ストレートプレイコースに進んでいたら絶対に通らなかった道。知らなかった感情を知った。本当に貴重な経験をさせていただいたと思う。
あの時の悔しさは今でも忘れない。
私が初めてぶつかった実力の壁だった。
そしてその後からはいただいた役・校長先生に真正面からぶつかった。色んな事をして考えてアイディアを出してキャラクターを作った。死ぬほど楽しくて、三浦先生や皆んなが私の芝居で笑顔になってくれる事が嬉しくて、役に大きい小さいは無い事も知った。
「貴婦人の訪問」は私の大切な苦い思い出だ。

そんなこんなで、あっという間に2年が過ぎようとしていた。入学当初は辞めたいとすら思ったこの学校に思い出ができ、沢山の初めての経験をして、いつの間にか芝居が好きになっていた。
そして自分の実力不足も感じていた。
今、外に出ても通用しないのは目に見えていた。
入学当初では考えられなかった、専攻科進学を考えるようになったのは卒業公演が始まってからだった。
芝居をする上で基本的な事ができるようになってきた私は技術が欲しいと思うようになっていた。そして海外公演にも興味があった。
そこであと2年を桐朋で過ごす事を決めた。

専攻科1年生の秋の試演会でも『見よ、飛行機の高く飛べるを』をやった。
また山森ちか役に選んでいただいた。
1年生の時とは一皮剥けた自分を見せたくて、
今まで見たことないちかになろうと決心した。そうして沢山挑戦して1年生の時には読み解けなかった事も分かるようになっていたり、笑いがとれなかったところも笑ってもらえるようになったり、毎回形は同じでもクオリティーをあげていく事の重要さも知った。
越光先生からは「俺の思い描いてるちかとは違ったけど、お前がやるちかには理屈があってそれで成立していたから何も言わないで見ていたよ」と最高の褒め言葉をいただいた。
固まってきていた演出家の求めるものをぶっ壊して、自分の想像力と表現力を認められる事がこんなに嬉しくて、同時にそれを毎回当たり前にできるのがプロの俳優なんだ。
また一つプロの厳しさを知った瞬間でもあった。

専攻科2年生では夢だった海外公演のオーディションを受け、見事合格。
三浦剛先生演出の「眞夏の夜の夢」を北京の中央戯劇学院で上演した。
7月は阿波踊り漬けの毎日だった。
基礎から入り単純な動きを30分ずっと続けたり、阿波踊りは集団美でもあるので、周りと形や動きを細かく揃えていった。
この年はWTEAのメンバーで5ヶ月間も一緒に過ごしていた。思い出が多すぎる。
利賀村のシアターオリンピックの為に、みんなで新幹線に乗ってテント泊で演劇漬けの2日間を過ごしたり、阿波踊りのお祭りに行き本物の熱量を味わったり、とにかく色んなところに色んな事を皆んなで体験しにいった。
夏の夜の夢はコメディだ。私にとって初めての挑戦だった。
オーディションで選ばれているだけあって、皆んな面白かった。そしてアイディアに溢れていた。三浦先生もパンフレットで仰っていたが、ほとんどが学生からのアイディアで出来上がっている作品だ。
私は妖精の王女様・チテーニヤ役を任された。人間とは違う威厳や只者ではない雰囲気を出しながらコメディチックに演じるのが難しくて、最後の最後まで掴めなかったというのが正直な感想だ。
コメディは難しいということを身をもって感じたいい機会でもあり、私がコメディを演じられる力量をもった女優になった時に、またチテーニヤを演じたいと心の底から思う。

中央戯劇学院のあの広い劇場で800人を前に芝居をさせていただいたことや、言葉の通じないお客様から歓声混じりの拍手をいただいた事は本当に貴重な経験で、日本の劇場との違いを知った瞬間でもあった。
そして、この経験から私は海外の演劇や劇場の雰囲気にもっと触れたいと思うようになり、今まで全く興味のなかった語学にも興味を持つようになった。
桐朋生活4年目にしてやっと経験できた海外公演は、私の人生や価値観を変えたとても素敵な時間だった。

4年間の集大成の修了公演では
シライケイタさん演出の『実録・あさま山荘への道程』に出演。あさま山荘に立て篭もった連合赤軍メンバーの1人吉野雅邦さんを演じた。

1972年軽井沢町のあさま山荘で人質をとって立て篭り、警察との銃撃戦の末、連合赤軍の5人が逮捕された事件。この5人の逮捕により山岳ベースで同志12人を共産主義化の為に殺害していた事実が発覚する。
この台本をもらったとき、[あさま山荘事件]聞いたことはあるが、建物に鉄球がぶつかる映像以外のことは何も知らなかった。
ある意味では殺人犯であるこの人達の気持ちが理解できるのか、この人たちに寄り添う事ができるのかという不安の方が大きかった。
私は、あさま山荘に立て篭った当時23歳の吉野雅邦さんを演らせていただいた。吉野さんを通してこの事件を知るうちに、彼らをただの凶悪人という言葉で罵ってはいけないなと思うようになった。
演じながら涙が止まらなくて他の人が話している時にも自分の中で誰かが喋っていてずっと苦しかった。こんな経験初めてだった。

この作品を通して、舞台で生きるってきっつー‼︎を痛感。汗かいて、涙流して、鼻水たらして、客の前で倒れそうになって、自分の弱さをさらけ出して。そこまでしなきゃお客様の心は動かないということを知った。桐朋4年目にして1番大切な事に気付けた。
この人たちがやったことは決して許される事ではないけれど、世界平和を目指そうとした彼らの根本の考え方、情熱、声を上げるという事は、現代の私達も見習わなければいけないと思う。
熱くて、苦しくて、切なかった。

このように、桐朋学園芸術短期大学で過ごした時間は長いようで短く、苦しくて悔しくてそれを越す楽しさと幸せと充実感で溢れていた。

自分の経験してきたことから想像力を働かせ、誰かに近づいていく。人と人の距離が縮まり、今まで知らなかった人やもの自分に出会えるのだと思う。経験が多い人は魅力的で溢れるパワーがあるように思う。
何かになり演じる私たちにはパワーが必要だ。あの桐朋学園に4年間も通った私はパワーに満ち溢れているはず。
これからの長い人生、この4年間を糧に挫けず、沢山恥をかいて、沢山笑って生きていきたい!


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