感情のルーツが母への感情にあるとしたなら母は最恐

母に抱いた感情が母以外の全ての人に抱く感情のルーツになっている。単純に言ってしまうと母を恐れたから人を恐れるようになった。母が私にとって安心できる人ではなかったから私は全ての人に対して安心を知らない。母が私にとって大切な人ではないから私には大切な人がいない。

私が車を運転をしていると助手席の妻があれこれ口を出してくる。「危ない! 車が来てるのちゃんと見てる?」「さっきのとこ右折だったのになんで通り過ぎるの?」「あっちに広いところがあるのになんでこんな狭いとこに停めようとするのよ」等々。

口うるさく指示してくるかと思えば場所を知っていると言っていた目的地を通り過ぎても黙っていたり、駐車場から道に出て右折する際左側からやってくる車の有無を確認して欲しいのにそれはしてくれなかったり。自分の意に沿わないときだけ口を出す妻の態度に苛々させられる。

道を歩けば人が怖い。電車に乗れば人が怖い。妻が横にいれば妻も怖い。私は人という人が全て怖い。私が人に恐怖を感じる際のパターンが妻に抱く感情に凝縮されているように思われた。

母とは年に一度三日間ほどしか会わない。普段は母の存在を意識しなくても生きていけるから母個人への恐怖は乗り越えたかのように思っていた。どうも違うようだ。母への恐怖を克服しているなら人を恐れなくなっているはずだ。残念ながら人への恐怖は消えていない。

今となっては母よりも身近な存在である妻に対してさえ感じる恐怖。そのルーツは母に抱いた恐怖にあるのではないか。ならば今ここで感じている恐怖の原因を妻の言動にだけ求めてみても本質的な解決には至らない。

妻に抱いた恐怖の先に母を見てみよう。今ある恐怖の感情と母のイメージをリンクさせて味わってみる。私は車中で妻の言動に苛つくたび、つまり妻に恐怖を感じるたびにその感情のルーツとなったであろう母のイメージ、母への感情を探ってみた。

人の気持ちが理解できない母に私はずっと否定をされてきた。「よくやった」と言われた試しがない。「今ココ(私)はやればできるんだから(やれ!)」と言われ続けてきた。私の運転で気に入らないことがあればケチをつけてくる妻。私は妻の口出しを私への否定だと受け取っている。

人の気持ちがわからない母は私の望みに応えてくれなかった。抱きしめて欲しい。愛して欲しい。本能の欲求を母は無視した。運転中に必要なナビをしてくれず、欲しい情報は提供してくれない妻。妻は私の欲求に応じてくれない人なのだと悲しくなる。

私が妻に抱く恐怖の感情を遡るとすべて母への感情に行き着くのだ。面白い発見だったので妻以外の人にも試してみた。人が怖いと思ったときのルーツを探った。するとやはり全て母にたどり着く。

母にたどり着くとは否定される悲しさにたどり着くという意味でもあった。自分の存在を、意思を、望みを否定される悲しさだ。私は母からとことん否定されてきた。その悲しみが人を怖れる感情のルーツだったわけだ。

心は理路整然とできている。とてもシンプルだ。そのシンプルな心が自分を欺くことがある。自分を傷つけないために嘘をつく。欲しくても手に入れられなかったものは手に入れる価値のないものだったと思い込ませる。

素直になるのは難しい。でも素直にならないと本当の気持ちは見えてこない。欲しくても手に入らなかったものは残念だけれども手に入れるだけの価値のあるものだったと認められるかどうか。

私は大嫌いな母から愛してもらいたかった。でも愛してもらえなかった。そこから全てがはじまっている。この先の人生をこれまでの人生とは違うものにするために、辛いけどまたそこからはじめよう。

ー 終わり ー




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