戻る場所がある人にとっての若気の至りは戻る場所がない人にとっては現在進行形

私は大人なのだろうか。五十歳。肉体的には大人どころ初老のおっさんだ。青臭い話しをしたいわけではない。自分が大人である自覚がまったくないのだ。

第二次反抗期というのがある。思春期になり家族以外の人間との交流が増えるなかで両親から教えられてきた価値観とは別の価値観に出会いそれらの取捨選択、変容を行いつつ個を確立していく過程で両親と対立するというものだ。

虐待を受けて育った子には反抗期がないと精神科医の高橋和巳さんは著書で次のように述べている。

普通の人は親の元で成長し、思春期になって精神的に親から自立する。一方、異邦人(注:被虐待者に共通に見られる心理的特徴から著者が名付けた被虐待者の呼び方)は最初から親とつながっていないので、彼らには思春期(=反抗期)はない。子どもの頃から自立している。いや、孤立している。

「消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ(筑摩書房)」
(注:)は私(イマココ)が付け足しました

私には反抗期がなかった。良い子だと言われてきた。
違う。人の気持ちを理解できない母は暖簾に腕押しで戦うに値する存在ではなかった。また何よりも母とのつながりを持てなかった私には母との関係のなかで育つ個が普通の人のようには確立されなかったため親との対立を必要としなかったのだ。
私は良い子でも、自立している子でもなく、まさに孤立していた。

小学生からの付き合いが続く親友との出会いがきっかけで中学生になってからギターを弾きはじめた。バンドも組んだ。周りにもバンドをやっている人間が何人もいた。同じような趣味の人間の家に遊びにいけば部屋にはほぼ間違いなくギターがあるというバンドブームの時代だった。

そのほとんどの人が今は楽器も触っていない。
私からすれば不思議で仕方ない。楽器をはじめるきっかけとなった衝動を考えると、やめるという選択肢などありえない。一生を通して楽器を触らずにはおれないはずだ。
私は今でもビートルズの「ツイスト・アンド・シャウト」のイントロギターとジョンのシャウトで気持ちが高まる。ジミヘンの「リトル・ミス・ラヴァー」のイントロドラムが鳴ると肛門がきゅっと締まりその場でエアドラムをはじめてしまう。
今でもギターも弾くし、歌もうたう。作詞作曲もする。すべて素人の宴会芸程度の実力だけど。

みんなは自分を試していたのだと思う。自分がどこまでできるのか。自分が何者なのかを知るためのツールが音楽だったのだろう。
思春期に反抗期を経験しアイデンティティを確立できる人間は人とつながっており、社会を自分が帰るべき場所として暗黙のうちに設定できている。
自分がどこまでできて、何者であるのかを知ることができれば、自然と社会に戻っていける。

私は人とつながっていないので社会に居場所はなかった。私にとっては音楽がはじめての居場所になった。音楽を通して形になっていなかった個が少しずつまとまりはじめた。音楽を通して自分の意見を形成していった。

私にギターを弾くきっかけを与えてくれた小学校からの付き合いになる親友は今でもギターを弾き、バンド活動をしている。
ギターをはじめたときの衝動が忘れられないという彼もまた世間の相場から完全に外れて生きている。最高の友である。

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今回はこれにて失礼いたします。
ご無礼いたしました!
みなさんに幸あれー

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