どうしたって悔やんでしまうけど、悔やんだ先にも解決策を見いだせないのがいっそう悔しい

自分の下着を畳んで衣装ケースにしまっていた。
ふと思う。二十年後は七十歳だ。七十歳になって一人淋しく下着を畳んでいる人生だとしたら。
そんなことを考えていたら急に悲しくなった。

時々、無性に淋しくなる。
一人や孤独というキーワードが浮かんだときだ。

七十歳で一人だったらどうしよう。
七十歳で孤独だったらどうしよう。

そうやって不安を将来に先送りすると、少なくとも「今」は一人じゃない、孤独じゃないと信じられる。涙ぐましい努力だ。

私は虐待を受けて育ったおかげで人が恐い。
人が恐くて、人を信用できなくて、人とつながっていない。

残念ながら、淋しいのは将来一人になったらではない。今現在だ。
令和五年四月二十九日現在、孤独だ。
今、ここで、私は淋しい人なのだ。

今日は良い天気だった。明日からは雨らしい。
空は青く日差しは柔らかい。
私は歩きに出かけた。

道には人がいる。人がいれば緊張する。
こんなきれいな空の下を歩く喜びも、人が恐いという一点だけですべてがぶち壊されてしまうのだ。

歩きながら人生で初めてうつ病になった二十三年前のことを思い出す。
あのときも今日と同じように空の青さに感動しながらも、その感動だけを信じて生きることを許さない自分の抱える人への恐怖に絶望していた。
まだ自分が虐待を受けて育ったという事実を知らず、意味不明の苦しさを毎日ひたすら耐えるだけの日々だった。

もし二十三年前に虐待を受けた事実を知って解決に向けて動けていたら、今日この青い空の下を歩きながらどれだけの幸せを感じられたことだろう。
そう考えると四十九歳での気づきがあまりに遅いもののように思われた。
もう手遅れではないかと悔やまれた。

「社会復帰とは違うと思います。復帰というのはこれまで居場所があった人が元の場所に戻るという意味ですから。イマココ(私)さんに居場所はなかったんです。だからイマココさんにとっての回復というのは、これまでとはまったく違う生き方を見つけるということだと思います」(カウンセラー談)


過去いた場所に戻ろうとするなら、確かにもう遅い。
過去に居場所があったなら、悔やみもする。

私は違う。私には過去のどこにも居場所はなかった。

まったく違う生き方を見つけるしかない。
暗中模索。見当もつかない。でもそれしかないらしい。
産みの苦しみ。一進一退。

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今回はこれにてご無礼いたします。
みなさま、ごきげんよー
ありがとうございました!





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