愛があるからこそ起こる葛藤を知れば確かに愛はあるかも

あるドラマに次のようなストーリーがある。

弟子Aは伝統工芸品の師匠のもとで修行に励んでいた。ある日、師匠の息子が見よう見まねで作った作品を見た弟子Aは到底息子にはかなわないと悟る。それでも師匠に認められようと努力する弟子A。しかし師匠は自分よりも息子の方に期待をかけていると知ってしまう。
「こんなものでは食べていけない」捨て台詞を吐き弟子Aは師匠のもとを去った。その後、弟子Aは全てを一人が手作業で行う師匠のやり方とは異なる作業の機械化によって商品の大量生産に成功する。

弟子Aの捨て台詞は師匠の人生を否定した。師匠は死ぬまで弟子Aを許さなかった。ドラマは次のような展開を見せる。

師匠が亡くなってしばらくたつと弟子Aの工場は経営不審に陥った。工場を閉鎖すると決めた弟子Aは長く足を向けなかった師匠の工房を訪ねる。
そこで師匠の孫が弟子Aに言うのだ。
「おじいちゃん(師匠)が怒ったのは伝統を捨てたからとかそんな理由ではないと思う。本当の子どもだと思って育ててきた弟子Aが他人のような顔をして出ていった。いつまでも他人のように遠慮していたのが許せなかったのではないか」

師匠の孫の言っている意味が私には全くわからなかった。怒るとこそこじゃないのでは? そんなとこで人って怒るかな? と白けてしまった。

という話しをカウンセラーにしたところ、カウンセラーはこの登場人物たちの心理を次のように説明してくれた。

「弟子Aにしてみれば自分が師匠の息子に叶わないなんて悔しくて言葉にできない。師匠は師匠で弟子Aを本当の子どものようにかわいがろうとしたのは嘘ではないけど実の子の方が可愛いのはどうしようもない。そこを弟子Aに見抜かれてしまった。そういう葛藤もあってお互いが歩みよれなかったのでしょうね」

弟子Aは弟子Aの、師匠には師匠の葛藤がある。わからなかった。いや。言われてみればわかるのだが自力でその解釈に辿りつくのは不可能だ。特に師匠の抱える葛藤なんて私には難問すぎる。

映画にしても、小説にしても、ドラマにしても、最後には信頼や愛に着地する物語を私は面白いと思えなかった。結局最後は人と人との絆にもっていけばいいと思ってるなんて安易だ。他の価値を提示しろ。と思っていた。

考えてみれば世界は人と人との関わり合いとその関係から生まれる個人の感情によって動いている。それが物語だ。だから創作された物語が人との絆を描こうとするのは当然なのだ。

母に愛してもらいたかったのに愛してもらえなかった私は愛なんて必要ないと思い込もうとした。その思い込みはいつの間にか「愛など存在しない」に変わっていったようだ。

私は愛を否定してきた。そこに全く気づいていなかった。なんなら自分は愛を人一倍信じているタイプだと評価していたくらいだ。なぜならよく涙していたから。

愛する人のために命を捨てる特攻隊員の姿が描かれた映画を見ると号泣は必至だった。私は人との絆、つまり愛を信じている。そう思えた。しかし今はその涙の本当の意味がわかる。私には命をかけてでも守りたいと思える存在がいない。それが悲しくて流す涙だった。

愛がない人生なんて生きていてまったく楽しくない。消極的な自殺願望を抱えながら生きているようなものだ。だから特攻隊員の姿を見ると羨ましい。これは決して特攻隊員の方々を侮辱しているのではない。私にも死を乗り越えられるくらい愛する人がいれば、しぶしぶかもしれないが死を選ぶだろう。大義のもとに人生を終了できるからだ。

そうは言いながら愛を知れば死にたくなくなるのもわかる。愛する人との別れは最も辛く、それこそが死の恐怖だからだ。特攻隊の人たちは本当に苦しかっただろう。彼らの御霊が安らかでありますように。

愛があるのを大前提としているから人は安心して暮らしている。愛を知ってる人たちにとってはあまりにも当たり前過ぎて意識もしないだろうけど。

今となっては私も愛を知りたい。愛を肯定したい。私は母とは違い人としての感情は持ち合わせている。愛せないのではなく愛を否定してきただけだ。

人との関係の根っこにある愛。巷にあふれる愛。その愛を無意識に享受している人たち。その人たちの姿のなかに私は愛を探してみようと思う。愛を見つけられたら愛を信じられるようになれるだろう。

そうなれたなら愛を信じたあげくに流す涙を体験してみよう。

ー 終わり ー

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