有る無しのループが解けたその先に在る自分ならつながりもある

親に感謝しなくてはならない。私の信じてきた宗教ではそう教える。親はあなたに無償の愛を与え、あなたの幸せだけを願っている。そんな親の恩にどう報いるのか。

その教えを聞くたびに私は優しいお母さんを思い出し親孝行のひとつもできない自分を申し訳なく思った。お母さんに喜んでもらえるような子になろう。何度も決意を新たにし涙を流した。

それは母を慕う気持ちが流させる涙だ。私は母が大好きだ。大学生になり一人暮らしをはじめてからも折に触れて母を思い出した。母との思い出を振り返り度々涙した。私はマゾコンなのだ。母が恋してく恋しくてたまらない。母が先に死んでしまったら生きていけない。そう信じて疑わなかった。

それが二年前にひっくり返った。母は人の気持ちを理解できない人だった。私は母から心理的ネグレクトを受けて育ったと知り母に抱く感情の答え合わせが間違っていたとわかった。私が母を思うとき感じていたのは悲しさや淋しさや絶望だった。私が流してきた涙は私には無償の愛を与えてくれる母がいないのを嘆く涙だったのだ。

母という自分を理解してくれ守ってくれる人のいる安心感。その安心感から生まれる感情の交流。人間らしいコミュニケーションを知らずに育った私は自分の気持ちを素直に感じられない人間になってしまった。本音と建前の本音がわからないまま生きてきた。

私は職を転々としてきた。仕事をやめる理由は人間関係の悪化がすべてだった。この人とならうまくやっていけると思った人といつもダメになる。やっと長く付き合えそうな上司と出会えたと思っても徐々に齟齬が生まれる。時間とともに相手への興味も尊敬も失われ恐怖だけになり逃げ出したくなる。

本当のところ私は人に興味なんか持っていない。あるのは人が怖いという感情だけだ。私にとって母をはじめとして人という人が全て怖い。怖いという気持ちを払拭したくて感じよく振る舞い相手に良い気持ちになってもらおうとしているだけだった。怖れから生まれる卑屈さ。それを人に対する興味だと勘違いしてきた。

私には人に対する尊敬の念もない。人生を通して憧れ続ける対象なんていない。いくつになっても師匠を尊敬し続けていると語る職人や噺家や、その他徒弟制度の中で生き続けられる人の気持ちがよくわからない。師匠も人間だ。嫌な面もあるだろうによく関係を維持し続けられるものだと不思議で仕方がない。

とはいえ興味や尊敬がないと付き合えないというのは大人としてどうか。仕事上の人間関係として割り切った付き合いができなくては社会で生きていけない。だから私は社会から外れ51歳で無職なのだ。

嫌なことから逃げて好きなことだけして生きてた人間だと友人、知人からは評価されている。仕事の人間関係がうまくいかなくなり、それを友人に相談すると、「仕事なんだから割り切るしかないだろ」とよく言われた。その割り切り方がわからない。関係を保ったまま割り切れない。私にとっての割り切りとは関係を断つとイコールだ。

仕事とプライベート。場によって人との関係のあり方を変えられる人は母親もしくはそれに準ずる人との愛あるコミュニケーションを通して他者とのつながり方を学べた人だ。人とコミュニケーションが取れるているからこそ割り切れる。同じ人間である限り最低限の安心と信頼を共有できているから可能なのだ。

私には最初から人への安心も信頼もない。だから無理矢理にでも相手に対して興味や尊敬の念を抱いていると思い込もうとする。それをフックにしなくては人間関係が始められないのだ。しかしそのフックは虚像だからいつか本音が表に出る。相手とつながるための何も私にはなかったとわかり全てが終わる。怖くて私はそこから逃げる。

人への安心と信頼。人への興味や尊敬。自分に無いものをあると思い込もうとした。それが苦しみを生む原因のひとつだった。それがわかってからも無いと認めるのは難しい。無いと認めてしまったら人とのつながりが本当に途切れてしまう気がする。でもどれだけあると思い込もうとしたところで無いのが事実なのだ。ある→無い→ある→無い、のループ中だ。

道ですれ違う人
スーパーでレジを打つ人
郵便局の窓口の人
飲食店の店員さん
マンションの管理員さん
駅員さん
電車内のカップル
買い物している親子連れ
等々。

みんながそれぞれ、その場での役割を果たしている。その役割を果たす人たちの中で私も私の役割を果たせたなら私も誰かが眺める風景の中の一員になれるのかも知れない。

私が持てる人とのつながりは今のところそのくらいでちょうどいいのかなと思っている。この先はわからない。

ー 終わり ー

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