見出し画像

関係をきずけないのに見た目にはこだわり続ける意味はあるのか

人からどう見られているのか、どう思われているのかが気になって仕方ない。どう思われているのかを悩んでばかりいても疲れるだけだ。だったら先手を打って思われたい自分を自己申告してしまえばいい。

一番簡単なのは見た目で主張する方法だ。バンドマンならバンドマン。サラリーマンならサラリーマン。やり手経営者ならやり手経営者っぽい風貌にして自身の所属している集団の属性を演出する。そうすれば世間がその集団に対して抱くイメージ通りに自分を見ていると想像できる。

そういう意図を持って僕は長髪にしている。何かしらのクリエイティブな世界で生きている人間だと主張しているつもりだ。現実は無職だし、何も作っていない。僕にも属している集団があるのだと世間に向けて嘘をついている。そうでもしなくては怖くて外を歩けない。

そうやって世間に嘘をついたままやっていけるつもりでいたのに調子が狂ってきた。街を歩きながらテナントのガラスにうつる自分の姿を横目で見たとき疑問に思った。

その長髪、誰からどう認識されてるか本当にわかってるのか?

僕は間違いなく物理的にはここにいる。僕の心も意識としてここにある。だけれども僕の物理的な肉体も心も他者と触れ合うことはない。いつも必ず、すれ違う。それは相手が悪いのではない。僕には他者との触れ合い方がわからないのだ。

他者との関わり方における心のポジションは三つしかない。一つ目は甘える心、二つ目は対等に認め合う心、三つ目は下のものを大切にする心。それらは成長に伴い一つ目から順を追って形成される。前の段階が成立しなければ次の段階には進めないのだ。

僕は母に甘えられなかったので、媚びることしか知らない。また甘えた経験がないために誰かを甘えさせてあげられない。だから対等な関係も作れない。僕の他者との関係のあり方は媚びるか威張るかしかないのだ。僕は人と関係と呼べるような関係を築いて付き合っているわけではなく、その場限りの緊張関係を次から次へと渡り歩いているだけだ。

つまり僕にとって長髪は所属している団体の属性をアピールするためのものなどではなく、媚びたり威張ったりするのに都合よく使える象徴だったわけだ。

ある日近所で白髪の長髪を後ろできれいに結んだ初老の男性を見かけた。すらっとした体型で身なりもきれいだった。見ると手にタバコを持っていた。初老男性は火のついたタバコを吸い込み濃い煙を一息吹き出すと、タバコを持ったまま横断歩道のない道を反対側に渡っていった。僕の暮らす地域は路上喫煙は禁止となっている。

僕は髪を切りたい。切ってしまいたい。出来るなら剃りたい。剃って暑い夏に楽になりたい。急に自分の長髪が許せなくなってきた。

しかし、僕の頭の形は歪んでいる。心無い母が赤子の僕をいつも同じ姿勢で寝かしていたため、右側後頭部が潰れている。左側は普通なのに。

ちなみになぜ坊主にしたいのかというと自分でカットできるからだ。仕事をしてないので美容室にいくお金なんてない。

僕の心と人生だけでなく、頭の形まで歪めてくれた母であるあの人を好きになるのはやっぱり難しいな。

ー 終わり ー

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?