見出し画像

自分の子どもだってよくわからない(けど、べつにそれでいい)

最近、子育てしていてよく思うのは一緒に暮らしていても、子どもが何を感じて何を考えてるかなんてさっぱりわからん、ということです。

僕は、たぶん、世の男性でいったら偏差値70くらい、子育てに関わってる方だと思うけど、そういうのは全然関係なく、わからないもんだなあと。そして、わかりたいという気もあんまりないというか。それはさすがに言い過ぎか。でも、うーん、あんまり、そういう気にならないかも。

ただ、わからないまま一緒に暮らしていくことになるのは事実なので、気持ちよく過ごしていくためには互いを尊重するってことは大事な気がしてきてます。月並みな発想だけど。

梨木香歩の「春になったら苺を摘みに 」という本の中に、「理解はできないが、受け容れる」ということが書いてあって、自分にとって尊重というのはそれに近い感覚。人を理解するという発想は傲慢だし、村上春樹が言ってるように「理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない」と僕も思うので、理解よりは尊重のほうがしっくりくる。

社会の分断というのが最近話題になってますが、それも同じことだと思っていて、必要なのは分断をなくすための「理解」ではなく、分断をうけいれるための「尊重」なのではないかと。分断というものは今も昔もあったはずで、人が生きている限りなくならないと思うし。

そういう意味では、理解・共感できる当事者であることが必ずしも重要ではなく、理解できない他人の方が尊重について考えやすい立場にいるのでは、と思ってます。

別の面から言えば、別に相手のことがよくわからなくても楽しく暮らしていけるってことがわかった、とも言える。そんなことを学ぶのに30数年もかかったのは大変残念だけど、致し方ない。やれやれ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?