善く生きるための稽古
バイオリンのレッスンに通い始めて7年くらいたった。
バイオリンといえば、まあかっこいい楽器である。心に響くメロディー、きらびやかな音、繊細なビブラート、指や腕のなめらかな動き。癒やされちゃったり、惚れちゃったり、とにかくいろんな感情を巻き起こしちゃう楽器である。
なので、バイオリンのレッスンとなると、ぽわわーんと「偉大な作曲家の楽曲に対する理解を深めつつ、自身の音楽性を反映させた演奏をする」ということを目指して、習い手が練習してきた曲を弾き、その解釈や奏法について教え手から指導を受ける、というようなことをイメージする人が多いのではないだろうか。しかしながら、それは音大とかプロとか、そういう天上人の世界の話である(天上界に行ったことないから想像でしかないが)
下民の僕がレッスンで何をやっているかというと、ひたすら基礎練である。
音楽は表現である。表現は自由である。
しかし、自由に表現をするためには確固たる技術が必要である。
そのことを、このバイオリンという楽器は否応なしに突きつけてくる。
バイオリンにはフレットがない。なので、音感がないと正しい音をだすことができない。顎の下に楽器を挟むという非常に不自然なフォームに慣れるだけでも一苦労である。また、視野が限定的でピアノやギターのように指が押える部分を視覚的に捉えることができない。
ピアノだと誰でも出せるドレミファソラシドを、バイオリンで正しい音程で弾こうとすると3年くらいかかる(僕は今でもあやしい)。user friendlyとは程遠い楽器なのだ(music sincerelyということだと思っている)。
楽譜を見る。そこには音符だけでなく、クレッシェンド(だんだん強く)、スタッカート(音を短く)、ピアニッシモ(非常に弱く)のような表現に関する記号も書いてある。表現は相手に届ける作業である。自分が短いと思う音で弾けばいいわけではない。また、短さ、弱さには質感がある。物理的に短く/弱く弾けばいいというものではない。その場に応じた適切な表現が必要で、その表現に対応する技術が求められる。
技術、技術、技術。とにかく技術。膨大な時間をかけて、研鑽を重ね、辛抱強く、個々の技術を習得していかなければいけない。そこを通らないと表現に届かない。
「うまくなりたいですか?それとも楽しみたいですか?」と、最初のレッスンで先生に言われた。
「こどもや初心者の方は、曲をやらないとモチベーションが続かないので、曲を中心に進めていくということをやりますが、今井さんは楽器経験者ですよね(※オーケストラでコントラバスを10年くらい弾いていた)。技術を身につけない限り、曲は弾けるようにはなりません。いろんな曲を弾いたとしても同じところでつまづきます。うまくなりたいことを目指すなら、技術を習得することに特化した練習にした方がいいと思います(意訳)」という先生の言葉を受け、7年間、発表会の曲をやるとき以外はずっと基礎練習を見てもらっている。
練習する。レッスンに行く。音階を弾き、教本の機械的なエチュードを弾き、フィードバックを受ける。家に帰って、フィードバックを反芻して、再び練習する。それを繰り返す。
繰り返しても一向に弾けるようにならない。仕事が忙しくて弾く時間と気持ちの余裕がない。楽器に触れない、触るのが億劫になる。疲れている中、子どもたちの遊んで!コールを冷ややかにかわし、練習時間を確保しても、前にできてたことができなくなっている。練習しながら思い出す。思い出したころには弾けない時間になっている。そんなことを繰り返しながら、曇りがちになる技術をちょっとずつちょっとずつ磨く日々。
これはいったいなんだろうと思う。
楽しいから続けているじゃない。バイオリンを弾くのが楽しいと思えるようになったのはつい最近だ。月2回のレッスンは行く前に毎回憂鬱で、行った後はさらに憂鬱だ。何が何でもうまくなってやろうという気持ちが強いわけでもない。基礎練ばっかりやってる僕がヴァイオリンで弾ける曲は数曲しかない。なぜ続けてこられたのかは自分でもわからない。とにかく続いていて、これからも続くだろう、という気はしている。
僕はいったいなぜバイオリンを弾いているのか、というのが今回の僕の知的探究のテーマである。僕は一体何を楽しんでいるのだろうか。どんな意味を見出しているのか。
稽古という思想
自分にとってバイオリンの位置づけが定まらないまま(でも確かに意味があることを感じている)、いろいろ考えていた中で、西平直先生の「稽古の思想」という本に出会った。
(この本に出会ったのはお坊さん同士の対話が聴ける、Temple Morning Radioのこのエピソードがきっかけ)
この本を読んで、自分にとってバイオリンを弾くということは、音楽が好きとか趣味とか自己表現とか、そういうことではなく、稽古としての意味を持っているということを自覚した。
というよりも、バイオリンだけでなく、僕の物事に対する美意識や価値観、振る舞い全般に対して、稽古という考え方が強く影響を与えているのだという方が正確だ。
日本の伝統的な思想の一つである稽古というものが、誰に教わるわけでもなく自分にインストールされている、この不思議。芸事とほぼ無縁に生きてきた自分が感銘を受ける、この不思議。そして、それらの不思議さを、むしろ自然なこととして受け止められている、この収まりのよさ。
自分が今感じていることをもうちょっと鮮明な形で言語化したいのだが、その前に、先述の西平先生の素晴らしい著作を紐解きながら、稽古という思想についての僕の理解を深めていきたい。
その前に、西平先生の研ぎ澄まされた知性と深い洞察、それによって僕のような素人にもわかるように平易な文章で書かれている「稽古の思想」の序文の一部を引用する。
この文を読んで何らか心が動かない人はこの先の話がピンとこないと思うので、離脱をおすすめする。少しでも何か引っかかった方は、ぜひ西平先生の著作を購入して頂きたい。最高の体験を約束する。
わざを習得すること、わざから離れること
稽古という言葉の一般的なイメージは以下のようなものだと思う。
では、稽古と練習は同じだろうか。あるいは、訓練やトレーニング、レッスンと同じだろうか。
技術を身につけるという点で言えば、全部同じと考えることもできるが、稽古はそういったものと一線を画するもの、独特の奥行きを持ったものとしてとらえる必要がある。
バイオリンを習っている身としては、以下の事例が非常にわかりやすい。
過去の作曲家が書いた楽譜を演奏によって再現するクラシック音楽は再現芸術と言われることがある。作曲家の意図を汲み取って演奏することが重要視され、楽譜に書かれた音を変えることは許されない。アドリブも禁止である(例外もあるが)。
なので、ここに書かれている通り、楽譜通りに弾くこと、楽譜に書かれた音を、楽譜に記載されたリズムで正確に出し、楽譜に書かれた強弱記号を反映して弾く、ということを強く求められる。そのために技術を身につける。
しかしながら、楽譜通り弾くのが正解だ、いい音楽だ、ということでもない。楽譜通りでありながら、楽譜には書かれていないことを表現しなければいけない。楽譜通りに弾く、楽譜通りに弾かない、という二律背反を成立させていくことが求められる。
この一見矛盾した状態を、わざを習う、わざから離れるという、振り子のように反転する動きを使って成立させようとするのが稽古の思想なのだ、と本書では語られている。
「わざから離れる」の先にあるもの
ビジネスの場では、学習棄却(アンラーニング)が重要だとよく言われる。実際にWeb上で検索すると、以下のような文章がたくさん出てくる。
このアンラーニングと稽古における「わざから離れる」はどちらも学んだことを棄却するという意味では似ているが、位置づけが大きく異なっている。
アンラーニングは新しい環境に適応するための手段、ツールとして位置づけられているが、わざから離れるは、そのことによって生じてくる何かに行き着くために必要なプロセスとして位置づけられている。別の言い方をすると、わざから離れるにはその先がある、ということである。
生じてくるものとは何か?
わざから離れるの先にある「生じてくる」ものとは一体どういうものなのかについて、本書の中では様々な角度で、様々な視点で言及されているが、明確にこうしたものだという形で言語化されてはいない。
言語化を避けているわけではなく、直接的に言語化することができないもの、言語で表現すると本来の意味を損なうもの、言語ではなく感覚として、具体ではなく抽象としてしかつかめないもの、ということなのだと思う(少なくとも自分はそう受け取った)。
そういった非言語的にしか理解できない「生じてくる」ものについての説明をいくつか取り上げる。
(注)以降は世阿弥の考えを引用して、先述の言葉を以下のように置き換えているので、以下を参考にして続きを読んで頂きたい。
わざを習う = 似する
わざから離れる = 似せぬ
生じてくる = 似得る
いずれも「〇〇ではない」という否定形で書かれている。「そうでないもの」という表現で空白を示すことで、直接的な言語化を避けながら、そのものを浮かび上がらせようとする、固定的なものではない、揺れ動くものとしてとらえようとしている。
この表現に対して、自分が何を言っているかわからない、とは全然ならないのがおもしろい。むしろ、曖昧さ、やわらかさを適切に表現できていて、書かれていることが思い当たる感覚がある。「似得る」が自分の中に内在していることに対する確かさを感じる。
本書の中では、この曖昧だが確かにある「生じるもの」に対して、別の角度からも説明を試みている。具体的には、似する、似せぬを「スキル」、似得るを「アート」としてとらえる見方である。
さらに、このスキルとアートの関係を以下のように説明している。
ビジネスの世界では、スキルについての議論はよくされているが、アートについての議論はほとんどされていない気がする。僕が敬愛する一橋大学の楠木建教授はここでいうアートをセンスと表現しているが、彼以外にまともに取り合っているのを見たことがない。
なぜ取り扱わないのか。それは、スキルの果てに行き着く先であるアートを、スキルの手前のものとして、才能や個性という言葉で「最初から備わっているもの」として取り扱っているからではないか、と思う。
これは「人の特性(強み、弱み含む)というものは、スキルの奥にあるアートの部分にこそある(=スキルは特性ではない)」という僕の考え方と大いに反するところで、社会と自分の人に対する見方の乖離の大きさを改めて感じるところでもある。
稽古することによって目指すもの
ここまで読むと「生じるもの、似得る、アートを目指して稽古をしていくのだ」、「ただのスキルアップではなく、アートを目指すところに稽古の奥深さがあるのだ」と感じるかもしれないが、そういった見方、感じ方を根底から完全に否定する、というところに、稽古の思想の真骨頂がある。
本書では、稽古の思想ともリンクする、禅宗の僧侶道元の考え方が引用される。
修行は手段であり目的である、と言い換えてもいいのかもしれない。これは非常によく理解できる。一万字くらい前に書いたバイオリンの話がまさにこれが当てはまる。
バイオリンを弾く。うまくなりたいと思う。うまくなるために練習する。では、うまくなったら、一定のレベルに到達したら、練習はやめるか、というとそういうわけではない。それは、うまくなるという状態に限界がないから、という見方もできるが、練習すること自体がバイオリンをうまく弾けることが同一である、目的と手段が重ね合わせになっている、という感覚の方が近い気がする。
本書では、さらに踏み込む。
僕は宗教家でもなく、何かの信者でもなく、無神論者という方が実態に近いが、それでもこの文章にはハッとさせるものがあった。「目的でも手段でもない、ただそれとしてやるのが修行なのだ」という、この考え方の奥行きとシンプルな強さ。そこから生じてくる、リラックスした納得感。
自分の弱さに向き合うこと、コーチングを受け自分の課題を解決すること、ビジョンや目標を掲げてそこに近づこうと努力すること、そういったことを重視する価値観は、ここでいう求道だろう。ストイックな求道者はビジネスの世界では称賛されるわけだが、真に目指すべきなのは得道なのだ、という禅の言葉によって救われる人はかなり多いのではないかと思う(僕もその一人だ)。
目的と手段が重なり合う、あるいは、目的でも手段でもない、純粋行為としての稽古が目指すものについて、本書では以下のように言語化している。
手段でもあり目的でもある、あるいは、手段でも目的でもない稽古では「成功と成就を同時に成立させることが必要」ということだが、意外と語られていないことで、自分にとってはこの話は非常に新鮮に感じた(「成果もプロセスもどちらも大事」ということではない点に留意してほしい)。
善く生きるための稽古
この文章は以下の問いから始まった。
問いに対して思索を漂わせる中で、稽古という思想に出会い、そこに問いに対する何らか答えらしきものがあるのではと思い、西平先生の著作を紐解きながら、理解を深めていくプロセスを経て、今一度最初の問いに立ち戻ることにする。
僕にとってバイオリンを弾くということは、稽古としての意味を持っているということなのだと思う。
バイオリンがすき、音楽がすき、という感覚はあるが、だからバイオリンを弾いているという形で接続することに長年違和感があったが、稽古としてやっていると考えると合点がいく。つまり、稽古をやりたい、わざを極めるということをやりたいというだけで、バイオリンを選んだのは身近にあったから、ということなのだ、ということがよくわかった。極論、自分にフィットすればバイオリンでなくてもよかったのだと思う。
「好きなことを見つけて、それにのめり込んでいくことが幸せ」あるいは「努力している人は好きなことをしている人に勝てない」というような話をよく聞く。子育てをしていると、こどもがすきなことを見つける、そのためにいろいろな機会を作ることが重要だ、という話もよく聞く。
好きなことがこの世界のどこかに存在している、それに出会うことが大事という、無邪気で陳腐な恋愛小説の概念を持ち込んだようなこの世界観に僕はずっと違和感があった。好きなことがない人は不幸なのか。あったとしても出会えないこともある場合は不幸なのか。あることが確かでもない好きなことを探すための努力をしないといけないのか。その努力自体は幸せといえるのか。まるで、運命の人に出会うために婚活パーティに参加するみたいで、自分には合わない世界観だなとずっと思ってきた。その理由が、今回ようやく感覚に近い形で言語化できる。
それはつまり、僕には好きな「こと(what)」はないが、好きな「やり方」(how)」や「様式(way)」がある、ということだ。そして、中でも稽古で表現されるようなやり方、様式がすごくすき、ということなのだと思う。なので、やり方や様式に意味があり、何をやるかはそこまで重要ではない、ということが成立する。
こうした考え方は一見奇妙に見えるかもしれないが、とくに珍しいというわけではない。
例えば、研究。対象が好きで研究者になる人だけでなく、対象よりも研究という様式が好きで研究者になる人は少なくない。
例えば、推し。こちらも、対象が好きだから推すという人だけでなく、推すという様式を重視する志向は確実に存在していると思う。恋愛も似たようなものかもしれない(かなり偏った見方である自覚はある)。
それと同じように、稽古という様式、わざを習得するために似得るに至る道を歩く(登ると言った方がいいかもしれない)ことを、自分は重視しているんだなということを強く自覚した。それは自分にとってとても大事なことだった。
では、これは、何のための、どんなわざを習得するための稽古なんだろうか。
スキルという言葉は、ビジネス、仕事の文脈で使われることがほとんどだが、仕事をできるようになるためのわざを習得する、という狭い、浅い領域であるわけがない。
いろいろ考えみたが、ソクラテスの「一番大切なことは、単に生きることではなく、善く生きることである(The most important thing is not just living, but living well.)」という言葉が自分に合うような気がした。
バイオリンを弾くのも、仕事に取り組むのも、家族のケアをするのも、体調のため休職するのも、すべては善く生きるための稽古の一環である。成功と成就の両方を求めて、、目的でも手段でもない、ただそれとしてやる。わざを身に着けて、生じるものに出会う。その何かに出会ったら、また次のわざを身につける。わざから離れ、生じるものへ、また近づく。何かをやるのではなく、稽古の様式をひたすらに繰り返すことで、善く生きることに近づいている。繰り返すことが善く生きることそのものとも言える。得道とはそういうことなのかもしれない。
これまで、誰かに「あなたのやりたいことは何か?」と聴かれたときに、どう答えていいか、いつもよくわからなかったが、これからは少しだけうまく答えられる気がしてきた。うまく答えるための稽古をしていく、ということなのだろう。
結び
誰が読んでもわかりやすいこと、使い道が明確であること、何かをよくすること、つまり役に立つことが重視される、この社会の空気を感じつつ、それをひんやりとした風で吹き飛ばして、わかりにくく、閉じていて、しかも長い文章を書くことができ、こうして読んでもらえて、僕はこの上ない満足を感じている。
ビジネス界隈で、散発的に生じては消えていく、流行りの思想を刹那的に消費していくよりは(2022年11月にティール組織作りたいとか言ってる人いなそう)、自分には先人の試行錯誤が繰り返し、時代の選択淘汰を耐え抜いて、今も残っている思想を学び、自ら似得るもの、生じるものを手に入れていくほうが、遥かに効率的で、意義があるように思う。
最後に、本書で最後に西平先生が書いていた言葉を引用して、このコンテンツの結びとしたい。自分はここに書かれている「見ることもできるし見ないこともできる、自在な境地」に少しでも近づくために、これからも善く生きるための稽古を続けていく所存である。
西平先生の著作を購入していただければ幸いである。これは埋もれていい本ではない。
活字が苦手な方はこちらの動画を視聴されたし。
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