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渡独283日目 みあげるベルリン

 月曜は隔週で一限に授業があるのみなので、土曜から月曜にかけてベルリンまで足を延ばしてきた。主な目的は第二次世界戦争や冷戦関連の展示をめぐるためだったので、本来は陰鬱な冬のうちに訪ねてあまり光の差さない中を考え考え歩きたかった。いつの間にか6月になってしまい、ひどく熱くまともに食えぬまま2泊3日を過ごしたが、それもよかったかと思っている。光の差す中で見たい展示がいくつかあった。

 初日は長距離バスに揺られて18時頃にベルリンに到着し、ホテルにチェックインして屋台のカリーブルストを食べたら一日が終わった。本当はもう少し出歩きたかったが、人口の多い街で女一人歩きは何かと不安だったので。二日目に観光の予定を詰めていた。

 ホテルにほど近かったのは現存するベルリンの壁で、徒歩10分ほどだ。休日の朝とあり人も少なく、青空の中で向かい合うような形になった。のちに町中に点在する他の壁も見るのだが、私が初めて見たものは比較的薄く、鉄筋が支えるコンクリートの断面は15㎝や20㎝くらいのものだったと思う。もちろん壁周辺には警備隊が居り簡単に超えられるものではなかったろうが、ああ、東と西を分ける物理的な障壁はこれっぽっちのものだったのかとあっけないような気が遠くなるような思いになる。狂おしいほどにこれをぶち壊したい人が、30年ほども見上げ続けたであろう壁。一晩で築かれたとも言われるくらいのものだから、それはあっけない作りだったのだろうが、それを30年間打ち砕かせなかった歴史的社会的背景がある。後に見る展示でも言えることだが、ホロコーストや壁建設などの象徴的な事件が始まるまでに着実に醸成されていくそれを可能にする社会というものに目を向けざるを得ないのだ。

 なんとなく落ち着かないまま次の展示まで歩く。虐殺されたユダヤ人のためのモニュメントに向かう途中にポツダム広場と呼ばれる広場があるので寄り道などするが、こうして明るく都市的に発展した青空の街並みの中に、また自らの加害責任を示す遺跡を抱えているその共存に少し感動する。直視を避けない点がタフだ。ユダヤ人のためのモニュメントは、数十歩離れた地点から眺めると、高さの違う長方形の棺桶のような石柱が縦横に並べられていて人二人すれ違うのがやっとなほどの隙間が縦横にめぐっている。中心部に行くにつれ石柱は高さがあり、背ほどの高さまで積みあがっているように見える。(ここで棺桶と書いてしまうのは思慮に欠けるかもしれない。何を連想させるかに、考える幅のある展示だと思うが、これが私の感じたままである。) ベルリン中心部に位置するので、周囲の高層建築や公園の木々に比べてそこだけ小さな平野のように見える。その対比が見る者に語り掛けるのかとふと見たときには思ったのだが、立ち並ぶ黒い角柱の中心部に入ってゆくと地面が平らに整地されておらず、どんどんと角柱に挟まれた通路を下ってゆく。そのうち角柱は私の身長を超え、2,3,4,メートルほどの高さになり私は取り囲まれる。そこから外を見上げるとわずかに先ほどまでそびえていたビルが覗く。しんとした、棺桶と見立てていた黒い角柱に取り囲まれて一人。どこかに埋められた、また積み上げられた遺体を連想する。統計に表れない死者や被害者の数、目に見えないその悲痛さを想像する。足を踏み入れなければ見えないが、すこし時代をさかのぼるだけでそこにあった、現在の発展すらも覆いきれない犠牲と過ち。

 そのモニュメントを訪ねた後は少し呆然とした。また心が落ち着かなくなったのでとりあえずブランデンブルク門など見て、評判のよさそうだったケバブ屋さんで昼食を摂る。精神的にジャブを食らっていたせいか、暑い中歩いたせいか知らんが、この日のまともな食事はこれのみである。気を取り直してベルリン・ユダヤ博物館に向かうバスに乗る。

 サムネイルの写真はそこで撮った写真である。博物館に入って間もなく、暗い照明の一角に僅かに天窓から採光する箇所があり私はまた見上げる。これは誰がどこで見た光なのだろう。多少私の考えすぎかもしれないが、打ちっぱなしのコンクリートのような壁に囲まれた中に射す光がこの博物館において無意味ではないだろう。その一角にいた見学者ほぼ全員が天窓からの光を見上げていた。収容所の中からだろうか、ひしめき合うトラックからだろうか、はたまた何かへの希望だろうか、監視塔はこんな風に収監者を照らしただろうか。周りの見学者は何を考えていたのだろうか。その時代の誰かも同じように無機質な壁に囲まれて、ある一点から射す光を皆で憧憬したのだろうか。

 この博物館は歴史記念館と美術館の側面を兼ねているようで、先に書いた展示があるフロアでは音楽と映像を用いた作品がスクリーンに投影されている。次のフロアに行くと第二次世界大戦前や最中の、実際の人々の営みが展示される。ナチ党の勢力、および反ユダヤ政策が厳しくなる中で、”J”とスタンプを押されたユダヤ人の身分証明書、避難前に教師と生徒が書いた手紙、ある家庭から押収され戦後に返還された燭台など、展示は多岐に渡る。そののちにこの博物館の中でおそらく有名な展示がある。足よりも大きいほどの大きさの金属板が、叫ぶ人の顔のように目鼻を丸くくり抜かれ、何層にも渡って積み重なっている。見学者はその顔を踏みつけ歩けるようになっており、歩く度に金属が擦れ合い硬い叫び声をあげるように聞こえる。

 さらに歴史的に詳細な内容は階段を上がった先から始まり、ユダヤ教にちなんだ文化の展示から、戦時の迫害の記録、現在の認識、というようにテーマが移り変わっていく。圧倒的なボリュームである。中でも印象的だったのは、ユダヤ人の権利を狭めてゆく法律が連綿と書かれた年表が幾枚も吊り下げられている箇所だった。記憶が定かでないのが歯がゆいが、1937(1938だったかもしれない。)年から、ドイツ国内のどの都市で何が彼らから剥奪されていったのかという記録が何百行と、何年にも渡って続く。決して、例えばナチ党台頭とともに急速に始まるのではない。これまで隣人としていたユダヤ人を、婚姻さえしドイツ社会になじみつつあった者たちの生活を、今日明日に踏みつぶせる訳ではなく、着実にそうせんとする社会体制ができてゆく過程に胸が詰まった。民主政治の体制があったにも関わらずこのような歴史を辿ったというのはヒトラー政権を語るときよく聞かれる文言であるが、陳腐な表現であるが、やっともう少し理解できた気がした。

 もう一つ印象に残ったのはユダヤ系にルーツを持つ現代のドイツ人に、自己のアイデンティティについてインタビューを取った映像だ。博物館の後半に設置されており、壁の何十枚ものスクリーンにそれぞれ一人、老若男女とりまぜられたインタビュアーがはにかんだ面持ちで映る。任意のテーマについて一人づつ意見を述べ、近くのスクリーンにバトンタッチする。たまにバトンが前のインタビュアーに戻り、会話形式になる部分もあった。テーマはドイツとユダヤ人という点から離れないが、前向きな展示であると思った。未来志向だ。インタビュー中には対立する意見もある。例えばユダヤ人をネタにしたジョークを笑えるか笑えないか、など。「当事者」の母数が大きいとき、取り上げられたサンプル数1の意見が代表として扱われるのはこうした当事者の声を取り入れようとする発信にありがちなことだが、その多様性を切り捨てず見せてくれたのが良かった。そう、ユダヤ人である前に、皆が個々人なのですよね。ずっとユダヤ人というカテゴリ名で呼んできたけれども。

 DDR博物館や歴史博物館などほかにも見るべきところはあったものの時間的にも中途半端になってしまうのと、情報と感情の咀嚼が必要だったのでベルリン・ダーレム植物園に向かった。何かが、しかるべきケアを受けて健康に育っているのを見ると清々しい気持ちになる。やはり生態を使った展示は業がつきもので、温室に閉じ込められたサボテンを動物園の檻の中にいるヤマアラシと重ねてしまうと少し苛まれる気持ちになるが、まあ、理解を得るためには衆目にさらされなければいけない場面もある。そっとしておけず、ごめんね。それ以外は特に何も考えず園内を回った。天気が良く、心地よく疲れ、様々なインプットを受けた。休みたくなった。

 ベルリンを訪ねたのは一週間前であるが、これを書くまでに大分時間をかけてしまった。膨大な情報と感情の処理だった。書き足しや修正も後ほどするだろうが、さしあたり最も新鮮な記録をしておきたく、ここまでを書く。

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