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未来するブックサロン「呼問」~日本流イノベーション 伝統と前衛のあいだ~

「本」と「対話」で未来に「問い」かける。
先が見えない現代社会を様々な角度から見つめ直し、『問い』によって豊かな未来を構想する『未来するブックサロン 呼問』プロジェクト。

今回~日本流イノベーション 伝統と前衛のあいだ~というテーマを考えるにあたって、編集工学研究所から手渡された1冊のイガイ本は『能』でした。能が培ってきた方法や文化を視点として取り入れることは、新たな気づきや意外な発見をもたらしてくれるのではないかという期待を込めての選書です。

安田登『能―650年続いた仕掛けとは―』(新潮新書刊)

ところで皆さんは「能」をご存じですか。
筆者にとっては初めて見聞きする世界で、本を読んだだけではなかなか実感が湧きません。
そこで!京都市にある「大江能楽堂」にお邪魔させていただき、「能」の世界に触れてみました。

「能」初心者の筆者、もちろん能楽堂も初めての訪問です。ドキドキしながら足を踏み入れました。

この日は観世流能楽師の谷 弘之助さんが、能のこと、大江能楽堂のことを丁寧に教えてくださいました。

明治41年に創建され、大正8年に改築された大江能楽堂は、先の大戦で楽屋等の一部が取り壊されましたが、幸運にも舞台はその災を免れ、その後改修を繰り返して現在の姿に至っています。
令和3年には舞台の基礎と舞台板(床)を大改修、真新しい床の白い輝きが艶やかなあめ色の壁板とコントラストを描き、より歴史を感じます。

能を演じる技術はもちろんですが、舞台やおもて、装束など能に関わる作り手の技術も使われなければ職人そのものが減りますし、またその製法も効率化されて質が落ちてしまいます。作る側の効率が上がっても、使う側の効率が落ちている気がします。

谷さん

事業も長い目で見た時には「作る側」だけではなく「使う側」の品質を維持することが大切なポイントになりそうですね。

能舞台の奥側の壁(鏡板)には「老松おいまつ」の絵が描かれるのが習わしです。常緑樹である松の生命力にあやかるためとも、神が降臨する木としてめでたさの象徴とも言われています。

なかでも大江能楽堂の松は、能楽堂、演者、そして観客の発展を願い、木の先端や根本をあえて描いていない珍しいものです。

能の歴史や演者の心構え、「型」の役割などについてお話を伺うなかで感じた、日本流イノベーションのヒントをまとめます。

「能」と「イノベーション」

心構え

観阿弥・世阿弥父子が大成した能ですが、その原型は天下泰平・五穀豊穣を祈る神事だとされています。名だたる戦国武将にも愛された能は、江戸幕府によって国指定の芸能となり、能楽師は今で言う公務員のような立場を得ましたが、明治維新によって国の後ろ盾を失い、商業資本もなかった能は一時衰退しかけました。明治政府により国劇に指定されて以降、徐々に復興して今に至ります。

上演形式もかつては五番立(1日で5曲を上演)でしたが、現在は多くても三番立となっています。一番が1時間ほどですから、昔は5時間も上演されていたのですね。見る人のニーズに合わせて変わってきたことのひとつです。

世阿弥も自らのやり方にこだわりすぎることなく、見る人の興味や関心を汲み取って、舞のスタイルやリズムなどを工夫し、その芸術度を高めていきました。ほかにも「装束」や「スピード」など650年の歴史のなかで直面した時代の要請に、反対意見や迷いを断ち切りながら変化を成し遂げてきたからこそ今があります。

感染症、物価高騰、世界情勢…揺れ動く社会に向き合う中で不安な気持ちになることがたくさんありますが、「危機」の「機」は「チャンス」。変化を避けたり逃げたりするだけでは未来を望めません。今こそしがらみを断ち切って「意思あるイノベーション」を生み出すときですね。

メンバーをより深く理解する

多くの邦楽と同じく、能にも指揮者がいません。演者や地謡(主役の心情や風景の描写、ナレーションを謡う人)、囃子方(楽器を演奏する人)は、誰に合わせるということを決めることなく、それぞれの息遣いを察知して瞬時にタイミングを合わせます
相手の思考や感情を読むために、息を吐ききった瞬間やその間、息を吸い込む音など、「呼吸を聴く」ことに神経を研ぎ澄ましています
その場でタイミングを合わせるからこそ、同じ役者がそろっても同じ舞台にはならないのだとか、まさに一期一会ですね。

コロナ禍では演じる時もマスクを着けたため、マスクの中で音が跳ね返ってしまい、タイミングが読みにくくなりました。改めて、息遣いで互いの呼吸を合わせ、感情を読んでいたことを実感しました。

谷さん

口元が見えなくなって相手の気持ちが読みにくくなったのは、私たちも同じかもしれませんね。
チャットやメールといったテキストメッセージによるコミュニケーションだけでなく、時には顔を突き合わせて、相手の息遣いまで意識したコミュニケーションに挑戦してみてはいかがでしょうか。

本質を掴む・伝える

能と聞いて、般若やおじいさん、白い顔の女性のお面をイメージする方も多いのではないでしょうか。
今回、面をかけて歩くという貴重な体験もしました。面をかけてみると、目と鼻の部分にしか穴が開いていないため、想像以上に視界が狭く、自分の足下も見えないほどです。舞台の柱を目安に前に進もうとすると、自然とすり足になりました。そして呼吸もしにくいのです。

限られた視界、苦しい呼吸に加えて、重い装束を身に着けるという制約のなか、いらないものをそぎ落とした最低限の「型」で演じます。
師匠に教わるのは「型」だけ。「型」を守りながらも見る人の心を動かすために、「型」をコピーするだけでなく、ちょっとした動きの変化、声の出し方などで繊細な表現を施します。
余計なものを削った「型」を最低限として、周囲に散らばるたくさんの情報から必要なものだけを選んで伝えるのが「能」だと教わりました。

もちろん、今回の取材では「能」の世界のほんの僅か、入り口を少し覗いただけではありますが、650年も続く日本流の方法には、まだまだ学びの可能性を感じます。
今回お邪魔した大江能楽堂(観世流)の皆さんは、毎年宮島で4月16日から3日間開催される「桃花祭御神能」に参加されています。(令和5年は4月17日に上演予定)
調べてみると、宮島以外でも県内で能を観劇できる機会は何度もあるようです。まずは皆さん自身の目や心でも感じてみていただければ幸いです。


EDITORIAL NOTE —小林のつぶやき

能を観る者の「気構え」として、着物で取材に伺った小林です。
これまで出会うことのなかった「能」ですが、聞けば聞くほど「観にいってみたい!」と思うようになりました。

「能」初心者用の説明書によると、その場の空気に身をゆだねて、雰囲気を感じるところから始めるくらいの気持ちでよいそうです。極端にいえば、心地よいリズムに任せて居眠りしてしまってもよいのだとか(迷惑にならない範囲で!)。
見る人に合わせて磨かれてきた「能」の器の大きさを感じます。

「技術(伝統)は使わないと衰退していく」という谷さんのお話も心に残りました。私が身に着ける着物も、未来に残したい日本の技術が継承されるために少しは役に立っているのかな?と感じ、ちょっとだけ誇らしい気持ちです。

『いま、い“こ”』 小林祐衣

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