生きている間に失われるものしか持っていないのが本当に怖い。
「私を形作っている」と思えるものを失っても私はどこまでも私を失えないから。

それなら何も手に入れず何にも縋らなければ良いのに、どうして、あなたに染まりたいだとか私を救ってよとかこれが本当の私だなんて言葉に未だ執着してしまうのだろう。
命さえも失ったとしても私以外になれないし、人の記憶に残るのは私と私の行いでしかないのに。

別にこうして自分の死後の世界を考える必要は無いし、自らを洗脳すれば私が認知できる範囲の外をフィクションと無視することも可能だ。しかし私はどうしても自分に残された未来で手に入れるものや壊れるものについて考えてしまう。
それを考える中で素朴な独我論を信じることももうできない。こんな複雑な世界が自分の脳内だけにあるなんて明らかに無理があるし、私の中に世界を閉じ込めて貶めたりしたくないから。

それは有限で無意味な自分から目を逸すことに繋がってしまう。

そして、私に意味など無いのだから、世界や他者に価値すら感じられなくなったら今ここにある営みは破滅してしまう。
また、終わりになっても先程書いた通り私が生きた事実を無かったことにはできない。現実離れしたニヒルな夢想では根本的な不安を解決できない。

「一瞬一瞬を大切にしたい、失いたくない、私でいたい」
それでは、これらの素朴な希望が現実的な幸せの糸口かというと、それも間違っている。希望も「ニヒルな夢想」と同じくらい現実離れしている。だから、この叶えるより抱くことに価値がある理想達は矛盾し合うしこれからも私を裏切ってくるはずだ。これらが救いになるなんて私は思わない。
しかし、それでもいくら間違っても、欲することや執着することを私は辞めないだろうし、きっと生きている以上それで良いのだろう。

全て無意味でも、私が私として生まれたという事実は変えられないのだから。


2022.8.10

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