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連載(6):資本主義社会崩壊の道程

この記事は『かとうはかる(著)「人類の夜明」』を連載しています。

3. 資本主義社会崩壊の道程

「いわゆる資本主義社会の崩壊は、発達した資本そのものが極大化することによって身動きが取れなくなり、どうにもその身が支え切れなくなってもたらされるのです。

企業は利益獲得を最大の目標としています。

ライバル企業に勝つために秘策をねり、新製品を開発し、雨あられの宣伝をしては売上増強をもくろみます。

そのために企業はできるだけ資本集約をはかろうとするわけですが、その一番の手法が吸収・合併と技術革新でしょう。

つまり企業は、資本集約を図ると同時に技術革新によって安価な商品を大量に生産し、その競争力をもって市場の独占を図ろうとするのです。

しかしライバル企業も負けじと資本集約と技術革新を推し進めるでしょうから、この戦いはどちらかが討ち死にするまで続けられるでしょう。

このように市場経済における企業の立場は、常に消費者とライバル企業を念頭においた相対的スタンスをとっていなければならないのです。

もし企業努力を怠ったなら、途端にライバル企業の餌食になるか、市場から排除されるかのどちらかの運命をたどらなくてはならなくなるからです。

こうして、吸収、合併、拡大再生産が資本の集積をますます促進させることになるわけですが、ここに資本主義経済の大きな落し穴があるのです。

・産業構造の高度化が進んだ先進諸国においては、資本の集積が進めばすすむほど利潤の低下は免れぬこととなり、それがまた資本の集約化を強いるという悪循環を生み出すことになる。企業はこういった理由から弱体化し、僅かな経済変動にも対応しきれない体質に変質していく。

・資本集約は雇用の劣化を招き、望みもしない失業という社会不安をつくってしまう。

・資本の集約化は一国内に所得格差を生みだすだけでなく、全世界にアンバランスな貧富の差をもたらすことになる。

・国際分業と比較生産優位(各国が生産費の有利な商品に特化した方が、互いの利益になるとする経済政策)は、多くの失業を生み出すばかりでなく、人から文化を、地球から自然を奪ってしまう。

・売らなければならない、儲けなければならない、この資本主義経済の宿命的体質が多様な社会を生み出し、その多様さがもたらす矛盾が更に社会を硬直化させてしまう。

これまでの資本主義社会においては、不況は一つの流行のようなものでした。

すなわち、

「物が売れる-生産が増える-収入が増える-物価が上がる-金利が上がる-貯蓄が進む-需要が落ち込む-生産が押さえられる-収入が落ち込む-金利が下がる-物が売れる」

といった景気の循環図です。

今までこのような不況は、呼び水を与えることによって克服も可能だったわけですが、価値観の変化や欲望の満腹感によって消費に長期的かげりが出てくると、これまでのような方法では回復が難しくなってくるのです。

といって外に方法はないわけですから、これまで以上に人々の欲望をくすぐり消費を促進させなくてはなりません。

しかしその消費が、基本的生活をはるかに越えた単なる人の欲望を満たすだけのものとすれば、企業の社会的責任は間違いなく問われることになるでしょう。(無謀な消費は地球環境を悪化させる)

現実に環境からの圧迫を肌で感じるようになると、人々の消費意欲はますます減退し、更に需要は落ち込んでくることになる。

それでなくても、腹一杯になった庶民の欲望を開発することは容易ではありません。

まして、昔のように本業以外で(金融、土地)利益を得ることなど到底不可能でしょうから、成長を続けなければやっていけない企業にとってこれは死活問題となってくる。

企業が赤字を出し税収が落ち込めば、国家の運営にも支障を来してくるわけですから、政府は景気回復に積極的に乗り出していかなくてはなりません。

財政投融資政策はその常套手段ですが、これは地下にお金を埋めて掘り起こすようなもので、なんら社会的利益はありません。

それどころか、ますます環境を破壊し資源の枯渇に拍車をかけることになるでしょう。

こうして、生き残りをかけた資本は海外へと向かっていくわけですが、この世界市場への進出も結局はライバル同士の醜い戦いとなり、資本の引いた後に残されるものは、頽廃した人心と荒れ地(環境破壊)だけということになるのです。

武力戦争は人命を奪い家や都市を破壊しますが、資本戦争はそれ以上に、貧困と飢餓、人心の頽廃、自然の破壊、伝統的生産様式や文化の破壊、といった大きな被害をもたらすのです。

さてこうしたことがきっかけとなり、人々の疑念は社会システムの根幹に触れるところまで拡大するでしょう。

社会不安とは裏腹に民主主義はますます熟成するでしょうから、この恨みの声は政治家を震え上がらせることになる。

政治家は庶民の一票が恐ろしいのです。

したがって所得の再配分は、ますます社会主義的色合いを深めていくでしょう。

要するに政治家は、社会主義的手法を駆使することによって庶民をなだめようとするのです。

これは成熟した民主主義社会において、経済弱者が圧倒的に多い数の論理(多数決選挙)からすれば、当然予測のつくところです。」

「しかし最近規制を緩和させ、市場経済を活性化させようという動きが活発になっておりますが、これは一時の流れなのでしょうか?。」

「多少の揺れもどしはあるかも知れませんが、人類主義あるいは社会全体主義は今後世界の潮流となっていくでしょう。

事実、民主主義が発達し国連の力が強まっている今日、発展途上国に対する経済的援助措置が富の再配分の役割を演じているし、地球環境を保全するグローバルな対応も、世界を人類主義へと向かわせているといえるからです。

日本においても、国民年金保険・社会保険・国民健康保険・失業保険・労災保険・生活保護制度など、数々の社会制度は今や当たり前になっています。

どんなに自由放任を叫んでも、人類主義が世界の趨向となれば、その流れに乗っていかなくては収まらなくなってくるのです。

ですからアメリカのように自由を強く訴える国も、また自由貿易を唱える国々にしても、いつか資本主義の矛盾にぶちあたり、社会主義的政策を採用しなければ収まらない時がやってくるのです。

この意識が拡大していけば、人々は『何でこんな回りくどいことをするのだろう?』、と疑問をもつようになるでしょう。

つまり、偏った富を税金で吸い上げ弱者に回すくらいなら、資本を公的なものとし、そこで生み出された富を平等に分配したら良いではないか。

そうすれば税金も社会保険も健康保険も徴収する必要はないし、所得の再配分に頭を痛めることもないのにと・・・これは次のような疑問と重なり一層表面化するでしょう。

・物価が上れば賃金も上り、賃金が上がればまた物価も上がる。こんなイタチごっこをなぜするのだろうか?、といった疑問。(デフレは経済を崩壊させるので、後に大きなインフレを生む)

・社会を豊かにする労働力は幾らでも必要なのに、なぜ失業者を出すような経済にしがみついていなければならないのだろう?、といった疑問。

・技術革新によっていくらでも物がつくれるようになったのに、資本主義の経済ルールに従わなくてはならないというだけで、なぜ餓死者を出さなければならないのだろう?、といった疑問。

・優勝劣敗(優秀な者が勝ち劣る者は負ける)に身を任せる市場原理は、配分の混乱をもたらしているだけではないだろうか?、といった疑問。

・神経を擦り減らし一生アリのように働かなくてはならない、こんな生き方が人間の本当の生き方なのだろうか?、といった人生に対する疑問。

こういった疑問は、貧困・飢餓・失業などの経済不安、戦争・抗争・殺人・強盗・麻薬などの社会不安、さらに、ガン・エイズ・奇病・環境汚染といった文明病埋が進行するにつれますます募り、その憤りが資本主義社会を放棄させることになるのです。

その資本主義社会に幕を引かせる直接の原因は金融です。

つまり資本主義経済の妖怪といわれる貨幣制度、すなわち金融制度の崩壊が発端となって、資本主義社会の終焉は始まるのです。

しかし、資本主義を断罪するのは人間だけではありません。

大量生産・大量消費の社会構造に、自然は厳しい反省を迫ってくるのです。

つまり人類は、自然界から目から火花が出るほど頭を叩かれることになるのです。」

「でも、資本主義社会以外にどのような社会システムがあるというのでしょうか?。それが見つからないからこそ、人類は今日まで苦しんできたのではないでしょうか?。」

「いいえ、理想とする社会システムはいつの世にもありました。ただ、人類がそれに気づかなかっただけです。」

「気づかなかっただけ?。どんな理想社会があるというのでしょうか?。」

「これまで人類史上において、永続性のある社会づくりがなされたことがあったでしょうか?。

権勢の宿命といえばそれまでですが、これまで築かれた社会はいずれも砂上の楼閣のごとく短命で終わりました。

これは、基礎そのものに欠陥があったからに外ならないのです。

つまり、誤った人間観や世界観の上に社会づくりがなされていたからです。

釈迦は『実在は心の中にある』といいます。

この世の現象は『心の反映である』ともいいます。

その真意は『物質の世界は幻のごとし、心の世界こそ真実なり』ということでしょう。

しかし人類は、これまで一度たりとも世界づくりに唯心論を採用したことがありませんでした。

人の五感(感覚)にかからないものを世作りの中心に据えるのが不安だったからでしょうが、その唯心論を無視した世作りの結果が今日の混迷なのです。

もうそろそろ人類は、何が本物で何が偽物か気づくべきではないでしょうか?。」

「ではご老人は、唯心論を社会システムの中心に据えろとおっしゃるのですか?。」

「そうです。ですから先程私は、理想とする社会システムはいつの世にもあったという言い方をしたのです。その気になって手を伸ばせば、理想社会はすぐにでも掴めるのです。

よろしいですか。

世作りをするには、まず人間を知らなければなりません。

人間を知らなくて、どうして良い世作りができましょうか?。

これまでの政治家には、この点が忘れられていたのです。

もし、『人間は何者で、何のために生まれてきたのか?、また何を目指して生きなければならないのか?』、といった人生の目的に目を向けるようになれば、それでは人はどのように生き、どのような文明を求めるべきか、またそこにどんな社会システム(経済)が必要か、といったことがはっきりと見えてくるはずなのです。

これをべースに社会を組立れば、どんな揺れが来たってビクともしないでしょう。

それでは整理してみましょう。

① 正しい人間像を知ること。
この誤った見方が、これまで人類を悲しみと苦しみに誘ってきたのです。真の人間像を知れば、人の迷いは吹き飛んでしまうでしょう。

② 人類(個人)の目的と使命を知ること。
目的地の見えない旅は、実に味気のないものです。はっきりとした目的地が見えればこそ、人は希望をもって前進することができるのです。

③ 人類が目指さなければならない真の文明を知ること。
これを知ることによって、具体的な生き方も見えてくることでしょう。

揺るぎない社会を築くには、この三つの解明は欠かせません。

これを放っておいて世作りなどできるものではないのです。

私が後に提唱する理想世界は、まさにこの理解のなされた世界です。

ですからあなたも、まずこの理解から入ってもらいたい。

そしてその理解がいくらかでも進んだ後に、私の提唱する理想世界の門をくぐってもらいたいと思います。」

(つづく)

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