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「子どもの宇宙」が教えてくれたもの

朝のキッチンで納豆をかき混ぜる息子と並び、「来年の今頃にはこんな朝は来ないんだな」とふと思った。女性としては背の高い私が、今どきの高校生男子にしては背の低い息子を見上げるほどではないのだけれど、か細かった肩はがっしりしてきたし、ついこの前まで冷たくあしらっていた私の雑談に耳を傾けてくるようになったことも、〈巣立ち〉の時を予想させる彼なりの気遣いのように思えて、少ししんみりした気持ちになる。

河合隼雄の「子どもの宇宙」の冒頭にこんな一節がある

この宇宙のなかに子供たちがいる。これは誰でも知っている。しかし、ひとりひとりの子どもなかに宇宙があることを、誰もが知っているだろうか。それは無限の広がりと深さをもって存在している。大人たちは、子どもの姿の小ささに惑わされて、ついその広大な宇宙の存在を忘れてしまう。

河合隼雄著(1987)「子どもの宇宙」岩波新書 P1

私がこの本と出合ったのはもう35年くらい前。心についての興味やカウンセリングという営みに関心が湧き始めたころで、河合先生の講演を聞きに行ったり、ご著書を読んだりするようになり、人の心について本格的に学んでいこうと思うきっかけのひとつになった。

実際に私が子育てを経験し始めたのはそれから15年も過ぎていたけれど、時折この一節が頭に浮かび、我が子に向ける自分の眼差しの有りように気持ちが向くことにもなった。

息子は、少し理解をされにくいところがあって、時々不思議な行動を取ったりもしたけど、私は子どもの中の宇宙を想像しながら、今、そこでどんな体験が繰り広げられているのだろうと思いを馳せたりした。
幼児のころの息子は、クルクルと回る洗濯機を見るのが大好きで、一旦座り込んだらてんで動かなくなる。そんな時「この子の宇宙では一体なにが起きているのだろう」と私も後ろから一緒に眺めてみることもあった。心に余裕のある時は・・

そう、心に余裕がある時は子どもの宇宙の広さを感じながら、私はきっと穏やかな眼差しを向けていたに違いない。ただそれはいつもいつもというわけにはいかなった。
私には毎朝息子を決まった時間に保育園に連れて行くというミッションがあった。洗濯機の前から動かない息子をあの手この手でその気にさせ、車のチャイルドシートに縛り付けて出発する日常が繰り返される。

ある秋の朝、いつものように洗濯機との惜別の想いでいっぱいになっている息子を車に乗せ保育園へ急いだ。まっすぐ続く田舎道に沿って、列をなすようにコスモスが揺れている。
不覚にも私は
「ほーら、きれいやなあ」と語り掛けてしまった。
途端、「わーっ」と声を上げたかと思うと
「取って、取って」と手足をばたつかせる。
「あー、言うんじゃなかった・・」
大きな後悔に襲われる。
ただでさえ時間はぎりぎり、先日<登園時間の厳守について>のお知らせをいただいたばかりなのに。
そんな焦りの気持ちが届くはずもなく、「取って、取って」はますます激しさを増し、道端のコスモスの列も途切れなく続く。
仕方なく私は大きなため息をついて車を停車させ、「もう!」と言いながらその何本かを茎からもぎ取り大急ぎで戻ると、忌々しいような態度で息子の眼前に差し出した。

一瞬にして息子の顔が輝いた。そしてその小さな両手を広げて
「わー! きれい、ありがとう!」と、とてもとても嬉しそうに花束を握りしめたのだ。
「えー、、そんな嬉しそうに・・」
私はハッとさせられて、さっきとは違う種類の後悔に襲われる。
息子の笑顔とコスモスに包まれたような、そして自分が急に小さな子どもになったような気持になって、こみ上げるものが溢れてこないようにしながら車を走らせた。

保育園に着いた時、登園時間を少し回っていた。出迎えて下さった担任の先生めがけて息子が駆け寄る。
「先生、どうぞ!」誇らしげに、花束を持った両手を頭の上まで掲げた。
「ありがとう!」少ししゃがんだ先生の、若くて可愛らしい笑顔が花束の近くにあった。
その光景が目に飛び込んで、遅刻の謝罪も満足にできないまま車に乗り込んでしまった。
何をそんなに、私は焦っていたんだろう・・・
そろそろ涙腺がやばいことになっていると分かっていた。

人だとか花だとか、そういったものに興味が薄かった息子の心に、花をきれいと感じる心が在って、大好きな先生を喜ばせたい気持ちや、きっと喜んでくれるだろうと信頼する感情が育っていることを知った。それは息子の宇宙の発見だったから、そんなささやかな風景でさえ大きな感動を伴って今でも思い出すことがある。

子どもの宇宙の一節はこう続く

大人たちは小さい子どもを早く大きくしようと焦るあまり、子どもたちのなかにある広大な宇宙を歪曲してしまったり、回復困難なほどに破壊したりする。このような恐ろしいことは、しばしば大人たちの自称する「教育」や「指導」や「善意」という名のもとになされるので、余計にたまらない感じを与える。

河合隼雄著(1987)「子どもの宇宙」岩波新書 P1

息子が小学校に入るころには洗濯機の前を陣取ることもなくなった。何かをやり始めると没頭してしまう彼が夢中になることのひとつが折り紙で、ダイソーで買った折り紙シリーズの本を見ながらとても器用に作品を作っていた。
それに目を付けた私は、2階の部屋に干した洗濯物を持って降りてきてたたむというお手伝いをさせてみることにした。
「折り紙上手だから、洗濯物も上手にたためそうね」
息子は喜んでその役目を引き受けた。
私からの称賛に快くした息子が張り切って洗濯物をたたむ。そのうちそれが当たり前になり日常の一コマになった頃、時々洗濯物の取り残しが起こるようになった。
「あれ?靴下が一つ残っているよ。ちゃんと確認しようね」
「はーい」
息子は生来の楽天家よろしく明るい声で返事をする。
そういうやりとりが何度も続き、息子の「調子の良いお返事」を聞いているうちに、私はだんだん心配になっていった。
この機会にちゃんとできるようにしつけなければ・・・
「学校でもよく忘れ物するよね。自分の目で確認する癖をつけようね」
子どものためを思う親心だった。

ある時、洗濯物の取り残しがないか確認をしようとその部屋のドアを開けた。
「あれ?なんで? こんなところに椅子が・・」
「そっかー、そういうことかぁー」
私は、やっと気づいたのだ。それは手の届かない場所に吊るされた洗濯物を取るために、部屋の隅に置いていた椅子を運んできて、そのまま片付け忘れていたものだということに。
そうだったのだ。私は気前よく洗濯物を片付ける姿に違和感を覚えることもなく、子どもの背丈なら取るのが精いっぱいで、グンと見上げないと見えない高さに吊るしていることにすら気付けていなかった。

子どもたちは大人に認めてもらうのが嬉しくて何かの形で努力をしている。大人たちが出来て当たり前と思い気付いていないところで、実は子どもなりの工夫と、精一杯の背伸びをしているのかもしれない。
窓辺に残されたままの椅子を見て私は、息子がいそいそと運びだし、その上で思いっきり手を伸ばしている姿を思ってみた。

この二つは幼い息子が彼の宇宙を垣間見せてくれた、自分にとってほろ苦く切なさを伴った思い出深いエピソードだ。今ではそれほど間近から息子の宇宙の様子をうかがう必要もなくなった。それは少し寂しいような嬉しいような、多くの親に訪れる感傷なのかもしれない。

けれどきっと大人になっても、誰の中にだって宇宙はある。宇宙の発見はやはり感動的だ。
私は大切に関わりたいと思う相手にはその宇宙の中を教えて欲しいと願う。
そして、私の宇宙の探索も続けたい。
息子との日常を思い起こしながら、自分の興味や活動の原動力になってきたものを見つけたような気持になった。

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