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間違ってていいから、自分の考えをもとう

こんにちは。めぐみです。
今日は、「正解かどうかを気にするより、自分の考えをもてるかどうかの方が大事じゃないか?」ということについて書きます。

多数派が世の中的な正解を作る

例えば私は、先月末で教員を退職しました。
公務員という安定した職を手放すことに対して、「勿体無い」「何で辞めるの?」とたくさんの人に言われました。

退職者対象の辞令交付式に行った時には、私以外の人はみんな定年退職される方のようでした。
普通は、教員になったら定年まで働くもの、というのが一般的な常識ですもんね。

確かに、始めたことをやめるのはリスクもあるし、辞めるには勇気も必要ですよね。
私もとても悩んだし、決断するまでは時間がかかりました。

でも、辞めるという決断をしたときに、こうも思ったんです。
それは、「世の中的な正解や一般常識があったとしても、当の本人にとってそれが良い選択かどうかは、全く別問題ではないか」ということ。

そもそも、世の中的な正解や一般常識というものは、多数派の人たちが作っているものですよね。
なぜなら日本は民主主義、多数決で物事が決まる国だから。

例えば選挙で言えば、多数派になれば自ずと勝てるし与党になり政権を握れます。
でも少数派だと、議席も少ししか取れないし政権も握れず、実際的な力は持てません。
世の中的な正解もこれと似た仕組みでできていると思うんです。

世の中で多数が支持する意見があれば、数が多いというだけで、その意見がまるで唯一無二の正解であるかのように扱われる傾向があると思います。
例え、他にもたくさんの意見があったとしても。

それがものすごく極端な方向に行くと、戦時中の日本みたいになってしまうと思うんです。
だから、「自分はどう考えるか、自分にとってはどうなのか」を考える視点がとても大切だと思います。

もしかしたら世の中的な正解は、単に「その意見に賛同する人数が多い」ということしか意味しないのかもしれない。
それが最適解ではないのかもしれない。

だから、例え自分が少数派の意見をもっていたからといって、それがただちに間違っている、というわけではないと思います。

正解探しよりも大切なこと

そして、これだけ人の生き方や価値観が多様化する社会においては、正解は人の数だけあります。
こう生きれば幸せになれる、といったような幸せのロールモデルは、もはや存在しません。

だから、どれが正解かなんて、本当は誰も分からないんです。
数年後の社会も予測不可能な時代なのだから。

だからこそ、正解探しよりも大事なのは、何らかの課題に対し自分の考えをもてるかどうかだけなんだと思います。

本で読んだ受け売りの知識や、ネットで検索して出てきた情報の切れ端ではなく、その人が自分の人生経験をフル動員して必死に考えて出した、その人なりの答え。
それこそが価値のあるもの。

そして、人に対して自分の意見を根拠をもって話せるか、書けるか、伝えられるか。
正しい答えを導き出すよりも、自分なりの答えを創造する方がずっと大事。

私はそう思います。
この記事の内容も、まさに私なりの考えなんですよね。
世の中的に正しいかどうかは、分かりません。

私の考えに対して、みなさんはどう考えますか?

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