イマムラノジツハ【初投稿】

社会人になって2年目。♂

1年目は高等学校の保健体育常勤講師👨‍🏫で勤務させて貰い、たくさんの人に教えを貰いました。ですが、寮の掃除から寮で出たゴミをゴミ処理場まで持って行ったり、草を買ったり、校内を掃除したりと雑務をこなす日々をしていました。14年続けていた野球からも離れてなぜかわからないがサッカー部⚽️を顧問と言う形で関わらせて貰いました。静岡や淡路島、コロナ禍で大変な時期だったけど1人で生徒をマイクロバスに乗せ走り回る日々でした。違う競技の先生方と話す中で指導者としてどうあるべきか、自問自答する日々が続いていました。

気づけば、8年前。親元を飛び出し、380キロ離れた静岡県菊川市へ。監督がコロコロ(8回)変わって次第に「甲子園」と言うより「楽しさ」遊びに走っていってたなと思います。1年の夏は準優勝するくらい本当に強くて「くる所間違えた」と思う時もあったけど監督が変わり2年の時には夏の選手権大会を訳あって途中棄権する学校になってしまい、次の大会も棄権、甲子園が他人事のようになりました。その中で「俺が監督になればいいやん!」と思い教員を志すようになり、中学の最後のテストで5教科90点台全くと言っていいほど勉強をしたことのない自分が本気で勉強する様になりました。進路決める時も「学生コーチが出来て教員免許が取得出来る学校」を希望して石川県金沢市にある大学へ進学することになりました。

大学に入学してからは教職とスポーツ指導に関することはとことん勉強しました。大学野球では、本当に運命的に出会えた指導者のもと万年地方リーグ2位のチームから4年秋には大学野球の甲子園でもある明治神宮大会に出場し、全国ベスト8までになり強豪チームになりました。学生コーチとして根拠のない自信と同期の結束力でここまで出来たのはめっちゃ自慢話です。

めっちゃ話が逸れましたが、就職は心に決めていました。「教員になる」と。そんでもっていざ就職すると23歳の自分には伝える引き出しが少なくて、相談に乗ってあげる事しか出来ませんでした。特にコロナ禍で寮で過ごしている子どもたちと反対に簡単にコンビニ行けたり、外食が出来たりする大人のギャップともどかしさが心にありました。厳しく指導してる割には自分に甘い大人。ここに居たら人として終わるなと感じ、心機一転就職活動を始めようと思いました。

その中で学校で1番知識量のある先生に「放課後等デイサービス」を教えて貰い企業を見つけることにしました。今までのイメージとしていわゆる預かり型放デイしか知りませんでした。調べる中で、「運動療育」と「保健体育教員募集」と書いている所に魅力を感じ現在働いている企業に連絡をさせて貰いました。ここでは、「グレーゾーン」と言われる障がい特性は見られるものの障害者手帳を貰えない子どもたちを運動を通じて学習脳の構築、社会性スキルの向上を目指す療育をしていて今までの自分の中の放デイのイメージを覆すきっかけになりました。また、惹かれた事が社長が元金沢市民で今も現役で金沢市の看護学校の教授をしていた事でした。もう真っ先にこれは「運命」と捉えていました。そして内定を貰い現在も楽しく自分らしく悩んでいる親御さん子ども達の為に一生懸命頑張ってます。

今思えば、結構大胆な行動だったと思います。描いていた、野球の監督にはなれてなくても今の仕事に誇りを持っています。それはなぜか。

「根拠のない自信と仲間がいるから」です。根拠のない自信は自分をポジティブにしてくれます。思い込みが人生大事なんです。子ども達に自信を持って貰うには思い込んでもらう事が自主的な活動(内発的動機)に繋がると思います。これを教えようと思ったら自分が実践してどう伝えたら良いか言語化出来るようにならないとダメだと思うんです。子ども達は本当に敏感で大人をよく見ています。なのでまずは自分から。そして仲間は今の職場の同僚です。本当に感心するくらい子供からの感じる力に長けている人ばかりでフィーリングで仕事をしている自分とは比べものにならないくらいの能力が凄い人ばかりで毎日勉強させて頂いていて心強い仲間です。

これからの目標として3年後「運動療育」を世の中に認知される様にする。泉州で1番の「運動療育指導員になる」若くても成れる、自分の仕事に誇りを持てる様に今まで通り「イマムラかそれ以外か」精神で個性的でおもしろい指導をしたいです。

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