見出し画像

例の件の話

例の件について書きたいと思います。自分の反応や変化のスピードがあまりにも早くて驚いたからです。

最初に原作の漫画を知ったのは、1月27日土曜日の日中。その夜には全巻読み終え、翌日には2周目を完走し、さらにその次の1月29日(月)の夜に作者の訃報に接しました。一瞬で背筋が凍りつき、暗澹たる気持ちが全身に広がりました。

ところがです。ほんの1時間もしたら、故人を悼む気持ちが、あっという間に薄れていたのです。最新刊の冒頭にあったドラマ化を告知する文章や、ネット上の一連の発言を振り返って込み上げたやるせなさはどこかへ流れ去り、作者の死を過去の事実として無感動に受け入れた自分がいる。この発見に、私は少なからずショックを受けました。

その間に何があったかといえば、検索です。無意識に定期的に、いつものSNSを、関連するキーワードで検索してしまう。「犯人探し」をする投稿をはじめ、そうした振る舞いを諫める声や、作者や作品を追悼するコメント、同業者の所感など、次々に現れる書き込みを目を皿のようにして読み耽りました。そうこうするうちに、悲痛な事件が残した痛みが別の何かにすり替わっていたのです。

同じ出来事を巡る情報が頭を埋め尽くしているのに、それが引き起こした痛切な感情が、どこか欠けてしまっている。いったい、どういうことでしょうか。

私の分析はこうです。検索の根元にある「新しい情報を知りたい」という意図を少し先まで覗き込んでみると、単純に心を揺さぶる刺激を求める自分が見えてきます。検索結果の一覧をざっと眺めるだけで、あっという間に感情や思考が脳内に溢れ出し、一種のカタルシスをもたらしている。訃報を最初に聞いた時の衝撃とは、似て非なる心情が渦巻いているのです。

SNSの常として、一つ一つの投稿はごく短く、おおやけの情報は限られているのに、よくもこれだけ断言できるなという内容ばかり。でもそれが、読み手を効率よく煽るように進化した表現で畳み掛けるものですから、下手なテレビ番組よりもよっぽど強烈かつインスタントに響いてくる。検索する手が止まらないのは、快楽の中枢を刺激するボタンを押し続ける動物の振る舞いと変わりません。

誤解を恐れずにあえて書けば、痛ましい事件だったものが、小説より奇なるドラマという一種のエンタメに変質している。我ながら空恐ろしい。

自分には自分のことしかわからないので、どこまで一般化していいのかはわかりません。ただ、この手の話題が現れると、一斉に書き手や読み手が群がってSNSのトレンド1位に押し上げる理由の一端は、同様な仕組みにあるのだと個人的には思います。発端や結末、ディテールが違えども、情動を強烈に掻き回す事象であれば否応なく食らいつく衝動。そして、それを他の手段ではあり得ないスケールで増幅するSNS。

おそらく今回の不幸の火付け役も、この衝動に駆られて集まった有象無象が醸し出した圧力でしょう。少なくとも、ネットに露出した一連の経緯からはそう見えます。脚本家の投稿が話題にならなければ原作者が経緯を説明することもなかったでしょうし、その反響が全然なければ削除する必要もなかったはずです。

悲劇を受けて、世間では漫画家側と映像制作側の関係がアップデートされそうな勢いを感じます。でも、SNSが持つ危うい機能は野放しのままです。

というか、規制のしようがないのです。人々が一度知ってしまった快楽を手放そうとしない限り。個別のサービスの非をどれほどあげつらっても、人間の本性にはなんの打撃も与えません。

2024年は元旦から不幸が相次ぎました。世界中で重要な選挙が相次ぐ年でもあります。その只中に放置された、ある意味で人間を狂わせる装置の存在。ちょっと怖くなる現実です。ふと思い出してある小説を読み返したら、どす黒い未来を予感させる論理に出くわしました。

「虐殺には、文法があるということだ」
「この文法による言葉を長く聴き続けた人間の脳には、ある種の変化が発生する」
「いわゆる『良心』と呼ばれるものの方向づけを捻じ曲げる」
「人々が虐殺の文法で会話するようになったら、その地域はどうなるだろうか」

結末は同書でご確認ください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?