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「死ぬ気で… 殺す気で 書く」に寄せて

違国日記』を読み終わりました。以前から気になっていたマンガで、どうやら最近完結したらしく、Amazonでセールをしていたので試しに読み始めたら、止まらずに最後まで買ってしまいました。面白かった。

でもここで書きたいのは作品の感想ではありません。作中に登場して気になった一言が色々な連想を呼び覚ましたので、とりあえず書き留めておこうと筆を取った次第です。そう、見出しにも掲げた「死ぬ気で… 殺す気で 書く」という台詞。

元々このマンガに興味を持ったのも、この一言があったからでした。これもまたKindleの日替わりセールで見つけた谷川嘉浩さんの『スマホ時代の哲学』という本から。冒頭をちょっと読むと、すぐこの台詞の話題が出てきます。谷川さんは「自分の言葉を研ぎ澄ませながら、(相手と)緊張感のあるやりとりもできる関係」を示唆した表現として、この言葉を引いています。自分はドキリとして、いつかは読まねばならない作品だと心にとどめました。

この台詞がぼんやり残っていたのか、起き抜けの頭に、ふとあることがよぎりました。もう10年以上前の出来事です。自分は仕事で、実際に「相手を殺す気で書け」と追い込まれていたのです。

有体にいえば、いわゆる特ダネでした。「自分はこの話を書くために、この仕事についたのかもしれない」と舞い上がったほどでした。

しかし大きな問題がありました。情報が表沙汰になると、教えてくれた方に多大な損害が及ぶ可能性があったことです。職を失うどころか、途方もない額の賠償を課せられるかもしれないと伝え聞いた覚えがあります。

当然悩みました。しかし仕事柄、どうしても書きたい。我欲のためと言われたらその通りです。世界で一番最初に書くことの名誉を勝ち得たいのです。

その気持ちを後押ししたのが、上司の先の一言でした。「殺す気で行け」と。

彼自身がその覚悟で書いてきたことは、これまでに上げた実績から知っていました。しかも自分とは桁違いの人数に影響が及ぶネタで。

それでも心はなかなか固まりませんでした。相手に死ぬほどの迷惑をかけてまで書くべきなのか。それこそ死にそうな心持ちで何日も考え込みました。記憶はもう、ところどころ掠れましたが、まんじりともせずに迎えた朝の、溢れ返った光の強さを今でも忘れられません。

結局、周囲に押し流されて原稿を書き上げました。掲載の日取りも決まりました。自分の気持ちに整理がついたわけではありません。所詮はサラリーマンとして、組織の論理に抗えないまま、私情を押し殺しただけでした。

幸か不幸か、この原稿が世に出ることはありませんでした。ある偶然から掲載日が先送りになり、その間に別の媒体が書いてしまったのです。抜かれたことを耳にして、言いようのない安堵感と悔しさが同時に押し寄せた記憶があります。

殺す気で書くというのは、私にとってはこういうことです。自分は、そこまでの覚悟をついに決められませんでした。

翻って『違国日記』。作者のヤマシタトモコさんが言いたかったことは、多分全く違うはずです。

第6巻の該当シーンを何度も読み返しました。「書くこと」を念頭に、台詞は「死ぬ気で 打ち 鍛え 研いで 命をかけて殺す そういう作業」と続き、日本刀を構えた主人公が、別の人物、おそらくはもう一人の自分を刺し貫く場面が描かれます。表現を極限まで練り上げ、切先のように鋭く、読み手に突き刺さるように書けとの教えでしょう。書き手の心構えとして、一つの理想かと思います。

でも自分は、やっぱりそこまでの境地には辿り着けなさそうです。もちろん書くことに苦しみはつきもので、それこそ死にそうな目に遭うこともあります。しかし、差し違える相手が読者なのだとしたら、最後は何というか、生き生きとしていて欲しいのです。

何だか見当違いの方向からマジレスするような無粋な物言いの感がありますし、若かりし頃なら傾倒していた考えの気もするので、上のような経験を重ねて、単に鈍くなっただけかもしれません。

それでも、あらためて自分は、削ぎ落とす代わりに押し広げるような、そんな文章を書きたいんだなと。

ちなみに「(読者や顧客に)刺さる」という言い方は嫌いです。


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