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義父が早く死にたいと言った時、僕は彼の人生を選びたいと言えなかった

「俺は早く死にたいんだ。明日死んでも後悔しないな」

アルゼンチン人の義父アネルと庭で立ち話をしていた。3月にもなると、ここでは秋の香りが漂ってくる。話の内容は、仕事やバケーションの過ごし方など様々だったが、なぜだろう、いつの間にか去年亡くなった妻のおばあちゃん、アネルにとっては義母の話題になった。

「良い最期だったよ。本当に眠るように天国に行ったんだ。苦しむ様子なんてなかった」、最期に立ち会ったアネルは思い出しながら言う。

「理想的な最期だったんだね」
「そうだな。実を言うと、俺も早く死にたいんだ。明日死んでも後悔しないな」

僕は言葉を失ってしまった。初めは冗談かと思っていたが、僕の目をじっと見つめるアネルの目は真剣そのものである。

緑の葉が黄色になり、枝からひらひらと落ちる秋は、老いや死を感じさせる季節だと思っていた。でも皆意識しないだけで、本当にそうなのかもしれない。

「俺の人生はひどかった。だから他の人生を歩みなおしたいんだ」

以前話しを聞いたことがあるが、アネルの人生、いや彼と同年代のアルゼンチン人は厳しい時代を過ごした。腐敗しきった政府のおかげで、一般市民が忽然として姿を消すこともあれば、フォークランド紛争やビーグル海峡危機もあった。

アネルは捨てられた死体を片づけている時に高価な品を見つけたことがあり、上空を低く飛ぶ戦闘機に向かって石を投げつけたこともあるらしい。

想像もつかない人生を送っているが、それでも僕から見れば、今のアネルは幸せそうだった。自分で建てた立派な家、3人の娘と孫に恵まれ、仕事も安定している。

「でもまだ若いじゃん。それにこれから、素敵なことがたくさん起きるよ」、同意してはいけないような気がして僕は言った。
「とっくの昔に、未来に期待するのはやめたからなあ」、そうだ、描いた未来に裏ぎ続けられたアネルは、未来を信じなくなったんだ。

「シュンは、俺の人生を生きたいか?」

アネルの前では、どうしても嘘がつけない。彼の人生は素晴らしいと思うが、やっぱり彼の人生は生きたくない。話を聞くだけでも壮絶だが、本当はもっと辛い経験をしているはずだ。

未来に期待できないということは、希望を持てないということである。希望を持てなくなるほどの、すさまじい人生に僕は耐えられるだろうか。耐えられるかどうかは分からないが、一つはっきりしていることがある。僕はアネルの人生を選ばないということだ。

「いや、選べないね」、少しでもシリアスな雰囲気にならないよう、笑いを付け加えた。
アネルも笑いながら、「俺もだよ。もう一度、この人生を選ぶのかと聞かれたら、絶対に選ばないさ」と言った。

いつの間にか、夜も深まっていた。BBQで使った炭が赤白い光を発している。涼しくて気持ちの良い風は、夏の日々を懐かしむにはぴったりだ。

「シュンの人生なら、もしあの時に戻れたら、と考えることもあるだろう。でも、俺はもし過去に戻れたらと考えることはないんだ。たとえ過去に戻れたとしても、どうしようもないからね」

人生は平等ではないのかもしれない。少なくとも、アネルの前では平等だとは言えない。生まれた時代や国は運でしかない。1992年に生まれ、日本で育った僕は、アネルよりもずっと良い環境で人生を送っている。でも、だからといって僕の方がアネルよりも幸せとは思わない。

幸せなんて主観的なものだ。他人が決めるものではない。僕が幸せだと感じれば僕は幸せであり、アネルが幸せだと感じればアネルは幸せである。そして、残酷な時代を生き抜いたアネルは、小さな幸福を見つけるのが上手だ。当たり前のように存在していて、それが幸福だと気づけないようなことさえにも気づける。

たとえばそれは、愛する家族や友人と過ごす時間かもしれない。たとえばそれは、青空を旅する白い雲をぼーっと見つめることかもしれない。たとえばそれは、朝起きた時に一日の始まりを感じることかもしれない。もしくは、夜ベッドに横になった時に出るほっとしたため息かもしれない。

アネルと話していると、この世界の残酷な一面を感じると同時に、世界には小さな幸せがたくさん落ちていることに気づく。とても小さな幸せを拾える人は強いのかもしれない。

そういえば、サン=テグジュペリが『星の王子さま』で言っていた。

砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているから

でも、もしかすると、本当にもしかするとだけど、アネルは井戸を探すのに疲れ切ったのかもしれない。

アネルは口では早く死にたいと言っているが、自分から死を選ばないことは分かっている。自分の天命が短いことを願っているのだ。

この世界にオアシスがあるのかどうかは分からない。だが僕達は、小さな井戸を見つけながら、砂漠を彷徨い続けなければいけないのだ。

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