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いつか醒めてしまうとわかっているなら。


『推し、燃ゆ』という作品を何年か前に読んだ。snsを通じて話題になっていた作品だから、読んだことが無くても名前を聞いたことある人はいると思う。分厚くなくて、文字が文庫本よりも大きくて、読みやすい印象だった。(物理的に言えばハードカバーは読みにくい、、)


序盤にでてきた「触れ合えない地上より触れ合える地下」という言葉。当時は私も主人公と同じく触れ合いたいとは思わなかったから、「そういうもんなんだ」と軽く受け取っていたけど、今はとても共感する。お金を払えば触れ合えるのなら、触れ合いたいと思ってしまう。でも、それが私だけではなく他の誰かにもしていると考えると耐えられない。私はきっと、触れ合える地下より触れ合えない地上の方が向いている。手に届かないくらいが私が私でいられる。

私は主人公ほど熱心に推しのことを追っていないと思う。推しのWikipediaの情報をルーズリーフにオレンジペンで書いて、赤シートで隠して覚えたりなんてしないし、推しの言葉を全て書き留めてファイルにまとめるのもしたことが無い。推しが出演してるドラマ、テレビ番組、ドキュメンタリー映像、全てをダビングしたら私の部屋はきっとDVDで溢れ返ってしまう。

推し方は違えど、推しに対する「 かわいい 」の種類はとても共感したから引用する。

どんなときでも推しはかわいい。甘めな感じのフリルとかリボンとかピンク色とか、そういうものに対するかわいい、とは違う。顔立ちそのものに対するかわいいとも違う。どちらかと言うと、からす、なぜ鳴くの、からすはやまに、かわいい七つの子があるからよ、の歌にあるような「かわいい」だと思う。

『推し、燃ゆ』   宇佐見りん

リボンやピンク色に対するかわいいも、顔立ちそのものに対するかわいいも私にとっては「かわいいだけ」のもの。リボンはかわいいし、顔が可愛い人ももちろんかわいい。それ以上でもなくそれ以下でもない。
一方で、推しに対するかわいいは引用の「七つの子」の歌詞にあるようなかわいいなのだ。存在しているだけでかわいい。髪の毛の1本から爪の先まですべてがかわいい。愛おしい。愛くるしい。好き。この世のありとあらゆる甘い言葉を全て煮詰めたような「かわいい」。恋人に向ける愛情に近い印象。伝わって欲しいけど、こればかりはフィーリングだと思う。難しい。

長々と書くのは好きでは無いから簡単にまとめると、推すことの土台にあるものはオタクはみんな一緒なんだなあと思った。背骨とまではいかなくても、推しが自分の中心であることはもはや殆どのオタクにとっては当たり前だろう。

そこまで好きでは無かった緑色。今の私のクローゼットにはワンピース、カーディガン、鞄、たくさんの緑色で溢れかえっている。ゲームでキャラクターを選択するなら迷わず緑を選ぶようになった。
推しくんの好きな食べ物を食べ、推しくんの曲を聴き、ブログに書いた本を読むようになった。ニュースの星占いとか、よくある生年月日占いとか、全部推しくんのもチェックするようになった。
こうやって私の世界は推しくんが中心で回っていて推しくん色に染ってゆく。それが幸せで心地よくて、たまらなく好きだ。

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推しがいつか「人」になり、推しを推せなくなる時が絶対に来る。幸せに引退するのだろうか。その時に私は何を思うのだろう。

平和な明日が来るのは当たり前ではない。寝て、起きて、スマホを開いたら昨日の晩までは平和だった世界が燃えていることなんて珍しくない。
衝撃的な報道ひとつで印象は下がり、お仕事も減り、レギュラー番組を降板させられるかもしれない。
誰かにどうにか出来るものではなくて、私たちファンは荒波に揉まれながら推しのことを待ってあげていけなくてはならない。誰になんと言われようと、推しのことを信じてあげなくてはいけない。


いつか来る、推しの活動が停止してしまう未来。いつか醒めてしまう夢だとわかっているのなら、今はその夢を存分に楽しみたい。


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