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軽やかに動く中央点M

息子・妻が溶連菌に罹患した。
現在は2人ともだいぶ回復しており、看病の為に1日休みをとった際に、会話なら問題なく行えるくらい回復した妻と話したかったテーマで雑談できた。

夫婦喧嘩について。

鏡の中のアクトレス夫婦喧嘩事件をご存知だろうか。

旅行?の車内で繰り広げられる、きまぐれオレンジロードというアニメの主題歌が、鏡の中のアクトレスかどうか論争。

夫の立場に立つと、主題歌が鏡の中のアクトレスか否かをとにかくはっきりさせたい。正しい・誤りを確定させて話を進めたい。

妻の立場に立つと、会話をする上でお互いの感情を慮る言葉の選び方でありたいし、正しいか否かを突き止め、話が先に進む事以上にまず平和である事を願う。

コメント欄を見ると、この様な会話を幼少期から耳にし過ぎて、防衛本能が刺激された身体反応を呈した人も多く見受けられた。

夫婦喧嘩のあるあるなんだと思う。これをテーマに扱って全体像を纏めた書籍だって、書店やネットにゴロゴロ転がっているし、実際何冊も読んだ覚えがある。

夫婦の会話も年げつが経って、3周4周いやそれ以上と同じ会話が繰り広げられてると、いろいろ油断しがちになる。結果、互いに欲しい一言の方が削ぎ落とされて、相互理解は寧ろ乖離していくと思う。

車内という密室で、他に誰かの目もなければ夫婦喧嘩は起こりやすいと思う。
あるあるだからこそ、子供時代にこの会話の当事者になる人も多いのだろうと思う。

話が飛んで大きくなるけど、夫婦喧嘩に於いて、ましてや戦争とかに於いては、自身がもつ価値観を絶対的な正義として確信するあまり、声が大きくなり、他の価値観が耳に入らなくなるどころか寧ろ積極的に侵害した結果発生するし、

そこに利害関係が絡んでややこしくなるという一面は少なからず孕んでいるんじゃなかろうかと個人的に思っている。

そして1番被害に遭うのはその場の当事者で、当然ながら夫婦喧嘩はそれが子供になりがちだと思う。

両親の喧嘩の当事者を経験した子供は、今後のコミュニケーションの選択肢に「相手を慮る言葉選びをせずに対象を完全否定しても正論で結論を導き出す」「感情を傷つけられ、溜め込めこむことが出来た暁にはヒステリックになっても良い・なるべき」というコミュニケーションが成立しない選択肢が常に脳裏に上がってしまうと思う。

下手すればそれらが第一選択肢にきてしまうと、本人が生きづらくなるのは火を見るより明らかだ。

かく言う私も、この様な夫婦喧嘩の当事者〜仲介者をした覚えもあり、母親の影響を強く受けている自覚があるので「溜め込んで爆発する」という選択肢をとってしまっいがちという認めたくない事実が存在する。

いや、こちらも認めたくはないけど部活や職場とかで立場が弱い人間に「正論と完全否定」もあったな。

だからこそ、息子にはその手札を持っていて欲しくない。だから妻にこのテーマを話せてこの気持ちを伝えられて良かったと思っている。

脳のアルゴリズムの一つとて、ホメオスタシスの提唱で有名なウォルター・ブラッドフォード・キャノンが提唱した「fight-or-flight response: 闘争か逃走か反応」から考えると

個人的に、格上もしくは同等と意識的?無意識的?にみなした相手には逃走(flight)し、反対に格下とみなした相手には闘争(fight)しているのだろう。

インモラルとか卑怯か否かの価値観は、生物の生存競争の舞台には存在しない。ひたすらに生きながらえる為にデフォルトで脳に設定されている事を改めて自覚されられる。

こう綴っていくと、コミュニケーションが円滑に行えている自分は認めたいけど、コミュニケーションが終了する二つのカードを切った過去は認めたくはないと思っているんだなと思う。そして、それは逆が考えにくいので当たり前だろとも思う。

と言うことは、コミュニケーションを円滑に進めたいけど平和でありたい思うのは逆説的側面も持ち合わせているのでは?と考えている。

仕事や裁判は限りなく感情を排除した方が結論に辿りつきやすい。
カフェでの雑談、カウンセリングや傾聴の場面では内容の正誤を問うより、感情に寄り添う会話の方が互いの魂が共鳴しやすい。

仕事人間や裁判で行われる様な会話が好きな人を思考(Thinking:T)として
カウンセリングや傾聴のような会話が好きな人を
感情(Feeling:F)としたとき、
Tに全振りしたら「敗北宣言を聞いても納得するまで正論で詰める」し
Fに全振りしたら「ヒステリックを起こして心のシャッターを閉じる」

逆説的側面を成立させる為には、TはF方向にベクトルを進め
FはT方向にベクトルを進め
妥協点Mを探る必要があると思う。でもここには壁がある。
内省的に自分がTかFを探りたいと興味がなければならず、しかも客観的でなければならないし、あくまで傾向となればTの自分もFの自分も同時に存在するため、シチュエーション毎に内省的になる必要がある。

Mがわかったところで、自分が心地いいと感じる範囲C(:Comfortable area)に相手をついつい引っ張りたくなる。
限りなくT寄りの人や限りなくF寄りの人はCと点Mまでの距離が果てしなく遠い。

「自分を変えるのは難しい」と言われているのはまさにここにあると思う。

「内省的かつ反復的かつ客観的に」は、得て不得手があり完璧がない。
にもかかわらず、怠るとSNSに蔓延する正論声デカディベートおじさんになったり、病んだ感情に漬け込まれた宗教に高額なお布施をするおばさんになりかねない。両者共に「話が出来ない・通じない人」だ。

物事明らかにすると、得意不得意の概念が発生し結果、実に得意な人は生きやすく、不得意な人は生きにくい側面を持つのがこの世の中ではないだろうか。

そう嘆いてばかりはいられないので、やはり息子には話の通じる軽やかに点Mを動かせて、広い範囲Cを確保して欲しいと親心に願うばかりである。

かく言う自分も点Mを動かす筋力をつけないと行けないし、範囲Cを広げる行動をとらないといけないと思う。色々な人と話して、T寄りの会話もF寄りの会話も様々な人とする経験を積んで研鑽を積まないと点Mを動かす筋力も落ちるし、範囲Cを見る視野も狭くなる。

改めて、逆走するエレベーターを進んでいかなければ生きにくくなるのに、逆走するエレベーターを進む事がそもそも辛いというジレンマを自覚させられる。あー、いやだいやだ。笑

それでも、子供は自分の背中を見ている。その事実が逆走するエレベーターを目の前にする自分のケツに火をつけている。その事に感謝するべきだろう。

息子の名前には「燈」という漢字が使われているが、まさか自分のケツに火を「燈」す展開になろうとは人生とはわからないものである。

ひとまず、妻との雑談では、これらの会話を前置きに、
先日の出来事で、私が朝食で水を入れ忘れて炊飯した結果、お米を焦がしてお釈迦にしてしまった事に、朝のクソ忙しい時間帯にも関わらず、正論で詰めなかった事を感謝する事が出来ました。

めでたし、めでたし!?

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