#71【介護雑記】家事介助なんていらない。
年老いた親が不穏な様子になって来た時、家族が最初に手をつけるのが、「家事介助」だろう。
MCI(軽度認知障害)のうちは、まだ、この「家事介助」に、「ありがとう!助かるよ!」と、その意味を理解してくれる。家事にサッパリ疎い父(MCI)なんかは、大喜びだ。しかし、母は、この家事介助を嫌がった。それは、認知症を発症する前のウツ期から。
ま、お互い、いち”主婦”として、その主張はわからんではない。母の自尊心をなるべく傷つけないように、そこは勝手知ったる実家ゆえ、黙って、ササッとやってはくるのだが・・・。
じゃ、母が出来るのか?と言えば、出来てやしねぇ・・・。
”なんなんだっ?!💢”
まだ、『認知症』や『介護』の事を、よく知らなかった時期の私は、実家に家事介助に行く度に、憂鬱で仕方なかった。
しかし、半ば、「勘当」同然で家を出ていった娘が、30年ぶりに、家に帰って来て、娘時代の親子の確執などなかったかの様に、アレコレと家事介助をしてくれることを、父は、母に遠慮しながらも、喜んだ。
それに、少しでも家事介助をしてやれば、母も元気になるかも知れない、やる気になってくれるかも知れない。前向きに生きる気になってくれるかも知れない・・・。
「うつ病」は治ると思っていたし、ひとたび、認知症が発症すれば、もう治らないなどと、知らなかった頃は、そう信じていた ―――。
週1ペースで行く度に、片付けなければならない家事案件は、だんだんと増えていく。最初は、小1時間で済んでいたものが、2時間になり、3時間になり、半日になり・・・。
家事介助の時間を増やしても、母の様子は一向に回復はしない。むしろ、どんどんと悪化しているようにさえ思われ、気が焦った。
実家へ行く度に、家事介助を嫌がる母と衝突し、時には、「なんで?なんで掃除なんかするの?私をそうやって責めるの?」と泣きながら私の後をついてくる母を無視して、トイレ掃除や洗濯、ゴミ捨てを強行したこともある。(今日やっとかないと、次はまた1週間後だし・・・。)
時には、私に感心を示さず、全く動かないまま、じっと座り続けていることもあった。冷蔵庫を整理して、「お母さん、この棚には、コレとコレを置いておくね。おかずの作り置きは、ここに入れてあるよ。」とか、「ゴミは、燃えるモノと、燃えないモノと分けてね。わかりやすい様に書いておいたよ。」と、説明するも、あきらかに、母には届いていない・・・。
そう思う日も多くなっていった。
”やっぱり、介護申請をして、ヘルパーさんを頼もう。とても間に合わない・・・。”
「ヘルパーさんなんて、絶対に嫌だよ!! 知らない人に家の中を見られるのは絶対に嫌!! 」
”まぁ、そうだよねぇ。実の娘が家事介助していたって、嫌がるのだから・・・。”
今思えば、この頃には、母は、既に「ウツ病」から「認知症」に進行しており、BPSD周辺症状からの「介護拒否」だった。
認知症を発症していた母に必要だったのは、「家事介助」ではなく、いつもそばにいて、たわいのないお喋りをしたり、一緒にデパートにお買い物に行ったり、毎食、一緒にご飯を作って、一緒にご飯を食べて、夜、寝る時には、「今日も楽しかったね。何も心配しなくて大丈夫だよ。」と、優しく背中をさすってあげることだった・・・。
”家事介助なんかいらない・・・。”
母が望んでいたのは、「ただいま~っ!!」と、元気に帰って来てくれる子供達だった。「お母さん、あのね・・・。」と、うっとうしい位に話しかけてくれる子供達だった。
もうどんなに、ご飯なんか作ったって・・・。家の中を掃除したって・・・。
子供達は、帰っては来ない。皆、私を嫌って、出て行ってしまったんだ・・・。
”寂しい・・・。”
「家事介助」ではなく、ただただ、”子供”として、”娘”として、「お母さん、元気ないね?どうしたの?」と、ズルズルお茶でも飲みながら、何時間でも、座って話を聞いて欲しかったのではないか・・・。
そういった対応が出来ていれば、母も、認知症とはいえ、あんなに壊れる事はなかったのではないか・・・。
そう悔やまれてしかたない。
しかし、例え、あの時点で、それがわかっていたとしても、結婚し、家庭を持ち、仕事を持ち、ようやくに息子達を仕上げて、後は自分の年金の為に働ける所まで、働かなくては・・・、自分の人生を全速力で走ってきた私には、母の”真のご要望”に答えられる経済的余裕も時間も環境もなかった。
家事介助が精一杯。
それを拒絶されてしまえば、後は、為す術なし・・・。
仕事を辞めて、自分の人生を諦めて、同居するしかないんだよね。
結局、親を満足させられるような、本当の「介護」なんて、同居しなきゃ無理。
だけどね・・・
と、いう気持ちもあった。
今となっては、ここら辺りが、当家の『家族介護』の、そもそもの限界だったのだと思う。父は、それをよくわかっていた。だから『老々介護』に徹していったのだと思う。
娘時代に「勘当」という手段で、母の呪縛から、私を解き放ってくれたのは、他ならぬ、父だったから。
私は、母ではなく、父の為に「家事介助」を続けた。そのそばで、母は、どんどん壊れていった。それは私の想定を遙かに超えて――。
2年前、父が心不全で倒れた時、母を直ぐに施設へ入居させたのは、父が退院後は、直ちにウチへ引き取り、「同居しよう」と計画していたのもある。
ウチへ来れば、「家事介助」は、もう必要ない。
環境の激変で、認知症発症へのリスクが高まっている父には、「家事介助」よりも、いつも、誰かがそばにいて、呼びかければ、返事をしてくれる、不安になれば、「どうしたん?元気ないねー。」と声をかけてくれる、少し外を散歩してくれば、「おかえり。よく歩いて来たね。偉いね。」と、迎えてくれる”声”と”笑顔”が必要なはずだ。
例え、「タイガー&ドラゴン」の如く、吠え合っても、
今は、そばにいるのが大事だ。
親子の間で「家事介助」なんかいらない。
家事介助はヘルパーさんに任せて、家族にしかできないケアがあるはずだ。
そして、家族だからこそ、出来ないケアもある。
両輪なんだ。介護は、家族と介護のプロとの両輪。
どちらに傾いても、うまくは走れない。
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