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その夏の夢

 私はその夏の夢をした。柔らかな風が吹き抜ける田舎の家、澄んだ空と緑の野原が広がるその場所で、母と私は毎日ピアノに向かって座っていた。母の指先から流れるメロディーは、まるで風に乗って舞う蝶のようだった。

 母はやさしく私にピアノを教えてくれた。最初はぎこちない指の動きに苦戦したが、母は温かい手を私の手の上に重なり、心地よい旋律の流れに自然と引き込んでくれた。母の声は柔らかく、私はその音に心を委ねた。

 レッスンが終わると、私は庭に出て、花を摘んだり、風に揺れる木々の下で本を読んだりした。夕暮れ時には、母と手をつないで近くの丘に登り、沈む夕陽を眺めた。空が赤く染まり、夜が訪れていた。

 ある日、私は母に
「どうしてピアノを学べないといけないの?」と尋ねた。
 母は微笑み、少し遠い目をして言った。
「音楽は、心を豊かにしてくれる大切なものだよ。」
 その時は私はこの言葉の意味がわからなかったが、ただの母の愛情と、ある程度の音楽の深さを感じた。私はピアノに夢中になり、母と過ごす時間を大切にした。音符一つ一つが、私たちの絆を深めていくように感じた。

 そして、夏が終わりに近づいた頃、私は一曲の小さなピアノ曲を母のために演奏した。母は静かに聞き入ってくれ、その後、優しく微笑んで「とても素敵だったわ」と言った。

 季節が変わり、冬になった。白い雪が空から舞っていて、地面に落ちた。私は玄関横に眺めると、ピアノはなくなった。
「ママ!ママ!」
 母は言い返しなかった。
「ママ!ピアノはどこに行っちゃたの?」

 視野はどんどんぼやけになり、母もういなかった。

 目を覚めると、嗚呼、それは夢だったか。しかし、その夢は私の心に深く刻まれた。母との美しい思い出は、今も私の心の中に刻み込んで、永遠に消えない。
 嗚呼、それはもうその夏の夢だったか。


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