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【エッセイ】未来に残ってほしいもの

ある私設の「書く」コンテストに、
4度にわたり応募していた。
その審査員の方々は「講評は真剣勝負」と、
ひとつひとつの応募作に、
魂をこめて向き合っていた。


今回の「自己紹介を書く」応募作には、

「原点をみつめなおしたいきもちになった」と、

嬉しい講評がついてきた。


言葉を産みだす仕事に就いている、エッセイや短歌で数々の賞を受賞している審査員の方に、そんなふうに言ってもらえて感無量だった。


講評は、丁寧な謝辞で結ばれていた。

「お辛いこともみつめ直しながら自分史
のように振り返る『自己紹介』記事を綴って頂きましたことを心より、感謝申し上げます」



こんなに心のこもった講評を、
このコンテスト以外で、いただいたことがない。


学生時代、ピアノを専門的に学んでいたので、なかば義務のようにして、コンクールにも出ていた。


演奏が終わると、審査員の代表と言われる先生が壇上にたち、講評を行う。それは、出場した演奏者に足りないものを、片っ端からあげつらっていくものだった。加えて、師事していた先生方からの「ダメ出し」が、嵐のごとく吹きあれた。

毎回である。


いちど、課題曲であったショパン・エチュードの中のある曲を、8小節ほど弾きとばす、つまり、どこを間違えたか、聴いていたら素人でもわかるほどの盛大なミスをしたことがある。


コンクール本番、スポットライトが夏の日射しのようにじりじりと照りつけるなか、審査員の先生方と出場者たちの、氷のような視線に刺され、
両の手はガチガチに固まっていた。


どうにか弾き終わり、おじぎをしてステージを
降りると、いっきに景色はグレーになった。

本選に残るのは無理だ。

結果が分かりきっている以上、
会場に残る必要はない。

帰ろう、とロビーに出たタイミングで、審査員代表の先生が壇上に出てきて、講評をはじめた。


ロビーにあるテレビのモニター越しに聞こえてくる声に耳を疑い、思わず振りかえった。


その先生は、壇上で、
ミスをしたわたしの演奏を取り上げていた。

こんなふうに弾けば、もっと良くなる。


ピアノを弾くような手振りで、
わたしは公開指導されていた。


もし会場にいたら、そこにいる人々の視線が、
まるごと、わたしに釘づけだっただろう。


恥の上塗りをせずにすんだことだけを救いに、
そのまま、ロビーから逃げるように
会場をあとにした。


あのときの偉い先生にとっては、こうすれば、
わたしが「なにくそ」と奮起して、もっと練習して上手くなって、また来年も出てくれると思ったのだろう。


しかし、わたしの心境は、
そんな思惑とは真逆だった。



二度とコンクールなんか出ない。
ピアノなんか辞めてやる。


そして、ほんとうに、
コンクールには二度と出なかった。




わたしが出会ったピアノコンクールの審査員は、
こういうものであった。

だが、私設の「書く」コンテストを主催している、審査員の方々は、どうだろう。



かれらは、講評は真剣勝負とおっしゃり、応募作の裏側を知るために、応募者のほかの記事にも、
目を通すのだそうだ。


その結果、温かい心のこもった言葉が並んだ講評を、わたしたち応募者が読むことになり、じんと胸を熱くする。また頑張ろう、自分の心と向き合って、いいものを書こう。


と、モチベーションを新たに、
来月も同じ舞台に「帰ってくる」



講評するとき、絶対に手を抜かない。
応募者に対して最大限の敬意をはらう。

そんな審査員の方々が集まる、このコンテストが大好きな一心で、月替わりのテーマに8月から今月まで、4回も応募できたのだ。




ところが、このコンテストの創始者と審査員の方々に、難癖をつける「元・応募者」が現れた。

ことの顛末を詳しく書くのは憚られるが、コンテストを運営する側の対応がマズかったと訴えた元・応募者が、運営側を「詐欺集団」と罵った。


元・応募者は、その後も審査員がコンテストの創始者に騙されているとか、コンテストを運営している会社は正規のものではない「詐欺の温床」であるとか、とにかく言いたい放題であった。


なかでも、わたしがいちばん心を痛めたのが、
コンテストの創始者である女性を「性的マイノリティ」と中傷し、「このことを私が暴露したら、あなたは社会的に致命傷を負うだろう」と、脅迫まがいのことまで言い放ったことだ。


このことは真っ赤なウソだった。

それは、コンテストの運営に携わっていた審査員のひとりにより、明らかにされている。



どうして、文章を書く、あんな「誠実な場」を創ったひとたちが、ここまで言われないといけないのだろう。


性的マイノリティだから、社会的に致命傷を負うなんて、この時代にたくさんいる「LGBTQ+」と言われる方々にも、失礼にあたるというのが、なぜわからないのだろう。


しかも、創始者の女性に関しては「事実無根」の誹謗中傷になっている。



LGBTQ +。まだまだ勉強不足で、意見する立場にはないが、わたしのまわりには、同性愛者であることをカミングアウトできずにいる友人や身内がけっこういる。


彼らは、誰にもそのことを打ち明けられず、そのまま音信不通になり、わたしたちの前から姿を消してしまう。


きっと、知らない街で元気にやっているんだろうな、と楽観的に思っている。

それでも、志をともにした友人たちはもちろん、親兄弟にすら心のうちを吐き出せず、同性のパートナーと住んでいるのを「友だちとルームシェアしてる」と濁し、人生を共に歩みたいと思うほど大切なひとの存在を、そのようにぼかしながら、関係を隠しながら暮らさなければならない、その苦しさは察するにあまりある。


それだけに、「性的マイノリティ」という言葉を武器にして、創始者の女性を攻撃する元・応募者に、憤りをかくせなかった。



この元・応募者は、コンテストの運営のあり方に疑問を呈した別の応募者が、運営側に「血祭りにあげられた」ことを見ていられなかったから、このような行動に出たらしい。


だが、考えてみてほしかった。


だからといって、あなたが運営側に「報復」したら、テロを起こした原理主義者をボッコボコに叩きのめし、そうしたせいで、おびただしい数の命をムダにしてしまったあの国と、ひとつも変わらないではないか。


あなたが守ろうとした「別の応募者」は、こんな形で争いの火種が大きくなり、コンテストそのものの名誉が損なわれることを、望んでいるのか。




こうも思った。


この元・応募者のように、相手のやることが気に入らないからやっつけている、という、一見、正義感に熱い「褒められるべき」行動が、


「いじめられる側にも原因があるのだから、
どれだけ傷つけたって大丈夫でしょ」


という、とんでもない理論に帰着するのだとも。


「いじめ」というのは、傷害行為、精神的(ときに性的な)虐待などの総称で、それを働くのが未成年であろうとも逮捕案件にしてもいい「犯罪行為」だと、断言させていただきたい。

ゆえに、たとえ「相手の間違った言動を改めてほしいから」という理由であっても、安易に犯罪行為を働き、相手を「断罪」していいわけはない。



コンテストの運営側の、応募者にたいする対応が、ほんとうにマズいものであったとしても、
それを裁くのは、わたしたち「ひと」ではない。


「ひと」が、「ひと」を裁こうとするから、無益な争いが生まれ、負わなくていい傷を負うひとが出てきてしまうのだ。



コンテストの創始者、そして運営に携わっている方々と、心ないひととの戦いは、長丁場になるのかもしれない。


それでも、わたしは見守り、応援しつづける。


文章を書く「誠実な場」が、ずっと残ってほしいし、心のこもった講評を書いてくれる、応募者のことを知ろうとしてくれる、審査員の方々を尊敬しているから。

もし、一兆分の一の確率で、かれらがコンテストを使って悪さをしている、すなわち、心ないひとの言うことが真実だったとしても、


「かれらになら騙されてもいい」と覚悟できるくらい、わたしは、このコンテストとその創始者、そして審査員の皆さまに、こころの底から惚れこんでいる。

無条件に信じぬけてしまうほど「血のかよった」
ひとたちを一堂に集めて、このコンテストを創ってくださったあの方に、感謝してもしきれない。


かれらに恥じない文章を、
どうしたら書けるのだろう。


自分に問いながら、これからも、ずっと書く。


だから、来年も再来年も、5年後も10年後も、
心ないひとの、心ない攻撃に負けず、
このコンテストが続いていくことを、たぶん
誰よりも願っている。

いただいたサポートで、たくさんスタバに通いたい……、ウソです。いただいた真心をこめて、皆さまにとどく記事を書きます。