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タメにならないロッテルダム国際映画祭ルポ<中編>

ロッテルダム映画祭では、町中の至る映画館が会場になり、沢山の映画が上映されています。
私の作品の上映される映画館につきました。入り口に、私の作品のポスターが貼ってありました。

「わー!うちの子がーなんでここに来てるの〜?」と嬉しくなりました。
 

また、お会いした人とご挨拶をする度、「何故来ているの?」と言われて「作品が上映されるんです」と言うと、どこの国の人も口を揃えて「Congratulations!!!」言ってくださります。
その度に、「そうなんだ。世界中の人から見て、ロッテルダム映画祭で上映されることはおめでとうなんだ・・」と祝福と歓迎を理解をしていきました。
 
上映チェックのため、ドキドキしながら会場で待っていると、映画祭がアテンドしてくださった通訳さんがいらっしゃり、ご挨拶をしてくれました。
それからモデレーターさん(作品を選定、プログラムをセッティングしている方)も一緒に、劇場に入りました。100〜150席くらいの会場だったと思います。

「こんな小さな無名の私の作品だもん、お客さんも1人とか2人とかかなあ」

とか思っていたら「満席です」と言われました。「え????」とぶったまげました。「ああ、こんな大きな映画祭だもん、映画祭関係者とか、日本人とかかな」と思いました。「一般のお客さんです」と言われました。「??????」続々と入ってくるお客さんは外国の人ばかり。「なんで?なんで?」が止まりません。そんな中、上映が始まりました。

一旦、私の作品の説明をさせてください。
上映していただいた私の作品は「世界」というタイトルの38分の短編映画です。
私は今、地元の長野で、地元の素人の子どもたちと、子どもたちが大人になるまで、実際のその成長に合わせて少しずつ撮影する長編劇映画を撮影しています。「刻」という作品で、私の人生をモデルにした、中学生から、大人になるまでの10年間のお話です。
なぜこれを実際に10年かけて、素人の子どもたちと、地元で、(ちなみに16mmフィルムで撮影しています)こんな撮り方をしているかというと、できる限りの「本物」の作品にしたかったからです。
映画は、フェイク、かもしれない。でもわたしたちが生きて、感じたこと、主人公が映画の中でも生きて、感じたこと、それらは本物だ、本物にしたい、そう思ってずっとやってきました。そのために時間がかかる事も、映画のためにいいことは、最優先事項だと思っています。

私は「映画監督」として生まれて生きてきたわけではなく、私という人間が必死に生きて、心を使って感じてきて、それで映画を愛し、表現を声にしてきただけのこと。だから映画が人生という前に、人生があって、その上で映画があった。私の映画は、私が言いたくて生まれて来る、だから評価やお金やそんなものに委ねない。だから私は私が残したいことを映画にしてきただけ、好きに好きなように作品を作ってきて、仕事にも、周囲の認知にも、映画や作品をしてきませんでした。超個人です。そんな個人を、なんだかすごい映画祭が呼んでくださった。「なんだ〜?」とやっぱり不思議な気持ちでした。

「世界」は、アキちゃんという女の子のお話です。アキちゃんは「刻」の撮影で出会った実際にいる女の子で、“言葉”を出すことと格闘してきた子でした。“言葉”を呪いながら、生きづらさを抱えながら、アキちゃんは洋楽を聞き、本を読み、世界のことを考えるのが好きでした。そんなアキちゃんや、子どもたちと映画を撮ってきて、私自身も生きづらさはあります、でも、この子たちに、一緒に未来を見せてもらってきました。それが私が生きることを励ましてきました。アキちゃんが世界を信じ続けられる世界じゃなきゃだめだ、この光を残さなきゃだめだ、言葉なんかいらない、アキちゃん自身が光だよ、そう言いたくて、アキちゃんのことを撮らせてもらうことにしました。
アキちゃんは、私のその想いを信じて、「世界」という作品に魂を捧げてくれました。この作品はあの子の魂です。
最初の「世界」の上映が終わった瞬間、沢山の拍手と歓声をいただきました。
 

上映後のQ&Aでは、何故この作品を作ったのか、私の作品の中でのリアリティある台詞のシーンはどう作ったのか、役者さんとの信頼関係が強く見えるがどういう関係を築いていたのか、また、キャラクターの心情について私自身と重なる部分があるのか、など、この映画の作り方と、作り手の私自身を知ろうとする質問などを頂きました。
上記に書いたような、どういう経緯で制作し、役者さんが私にとってどんな存在か、私が「本物」にこだわって生きてきた美学、私の生き方や人生を、限られた時間でできるだけ正直にお話ししました。
皆さんすごく真剣に聞いて、時には拍手をして、肯定を反応で返してくださいました。
 
私の上映作品と、アメリカのサンフランシスコのアフリカ系黒人コミュニティの音楽を撮った「KeepingTime」という作品が併映されました。私の静かな映画と対照的に、音楽がずっと鳴っている映画でした。でも同じ魂を持っている映画だ、とすぐに分かった。言葉じゃなく、音楽で皆が繋がっていて、忘れられない美しさや「好き」と向き合う気持ちに「生きる」を託しているところがある。映画としても、ドキュメンタリーと劇映画を混ぜている作品で、「本物」を追求している、私と共通の美学を持っていました。この作品と併映されたことがすごくよく理解できたし、私の作品は本当にちゃんと観られているんだ、と思いました。
素晴らしい作品で、すごく光栄で、「KeepingTime」の監督やキャストやスタッフさん、総勢10名くらいの若くておしゃれでかっこいい皆さんが、私に「君はクールだ!」「素晴らしかったぜ!」と声をかけてくれたのも楽しかった。
 
2回の上映が終わって、私の作品と「KeepingTime」を選んで組み合わせて宣伝してくださったモデレーターさんと一緒にビールを飲みました。こんな小さな作品の私を、作品を、すごく尊重して話して下さっているのがとても伝わりました。「新人の登竜門」として、大小限らず、新人監督を埋もれさせず、きちっと発掘して見つめてくれる、すごくいい映画祭、と人が言っていましたが、モデレーターさんの姿勢が、映画祭に来てずっと感じていたことと同じ、まさにロッテルダム国際映画祭を表していると思いました。
すごく自信になりました。(ちなみにモデレーターさんに、好きな映画監督を聞いたら侯孝賢、と言われて叫びました。私の世界一好きな監督だったからです。嬉しかった・・)
 
とっても大きな映画祭で、映画の関係者だけじゃなく、オランダの人々にとって、楽しいお祭りなんだと知りました。
 
上映後、ロビーで感想を言ってくださる方々。みんな、こんな小さな私を、ちゃんと見て、「美しかった」「あの子は美しい」と言ってくださいました。ロビーですれ違う私に、立ち止まって、親指を立てて、力強く頷いて行ってくださる観客の皆さん。言葉を超えて、アキちゃんの美しさがちゃんと届いた瞬間でした。

≫後編につづく