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震災から10年、福島から海外へ避難して~Ⅲ 3月12日 7. 長い長い一夜

7.長い長い一夜

(1)国道の渋滞

 酒屋の横に公衆電話があったので、震災以来2度目の電話を母にかけました。前の電話では心配をかけたくなくて、「大丈夫。」としか言っていなかったので、母の家に突然避難しに押しかけて行くと言ったらどう言われるだろうと心配でした。後で書きますが、母はいわゆる毒親で予測のつかないことを言う人だったので。でも、このまま順調に進んだら、早くて今夜遅くに着くかもしれないので、いつまでも先延ばしにするわけには行かず、かけてみました。
 「福島第一原発が大変な事故になっているから、お母さんの家に子供たちと避難させてもらおうと思って。もう出発してるの。何時になるか分からないけど、早ければ今夜遅く、遅ければ明日の朝に着くと思う。」と緊張した声で言ったら、すんなり「分かったよ。気を付けて来てちょうだい。何時でも玄関は開けておくから。」と言ってくれました。母は人が困ってるととても同情してくれる人だったな、今回はうまくいった、とホッとしました。ただ母は79歳で痴呆の兆しがあったのと、もともといつも言うことがコロコロ変わる人だったので安心はできませんでした。
 
 また4号線を南下しました。郡山市から、少しずつ車の流れが悪くなってきました。須賀川市に入ると、アスファルトが隆起したりひび割れたりして道が悪くなってきました。「これが天下の国道4号線?」と思いました。改めて地震の大きさを感じました。
 渋滞が発生してきました。反対車線も渋滞しています。反対車線には、自衛隊の災害救助車が多くいました。また、関東ナンバーの車が多く、おそらくマスコミや、親戚に救援物資を届けに行く車だったのでしょう。
 逆に、東京へ向かうこちらの車線にいた車は、ほとんどが福島ナンバーでしたが、宮城ナンバーや岩手ナンバーもありました。「津波の被害を受けて避難するのかな、大変だなあ。」と思いました。真っ暗な中、「早く進みますように。大きな揺れが来ませんように。」と祈りながら焦りながら運転していました。
 渋滞で止まっていると、緊急地震速報とほぼ同時に、大きな揺れが何度も来てこわくなりました。大きな余震が多く、スムーズに走っている時でさえ緊急地震速報がなると車が蛇行して走りづらくなりましたが、停まっていると余計車がグラグラ揺れるのを感じました。渋滞していると逃げ場がないのでどうしようと思いました。車を置いて逃げるわけにはいかないし、と思いました。でも、余震は本震よりきつい地震にはならないだろうと信じて車に乗り続けました。

 車のラジオはずっとつけっぱなしで、原発のニュースを極度に緊張しながら聞いていました。長男も助手席で身を固くして聞いていました。緊張のせいか、長男は「頭が痛い。」と何度も言いました。「息がしにくい。呼吸ができない。」とも訴えていて、子供にこんな怖い思いをさせていることに身がすくむ思いでした。
 主に聞いていたのはNHKで、原子炉に海水を注入して原子炉を冷やす措置が取られるニュースを「早く冷やしてくれ!」と、ドキドキしながら聞いていました。海水を注入することがいいことなのか分かりませんでしたが、とにかく原子炉を冷やさないとさらに大きな爆発が起きるかメルトダウンか大変な事態になることは感じたので、祈るような気持ちでニュースを聞いていました。同じニュースが繰り返し流れるなか、時報の後のニュースではわりと新しいことが報道されるので、特に注意して聞いていました。常に放射線量は上昇し圧力も上限のままでした。
 時々民放も聞きましたが、あまりにも情緒的でラジオのパーソナリティが悲しそうな声で津波の被害や視聴者のメッセージを読み上げながら音楽を流すのが耐えられず、ニュースとして正確なNHKの方に切り替えました。当時民放では一青窈のハナミズキが繰り返し流れていて、歌としては好きな歌だったのに、恐怖と焦りでピリピリに毛が逆立っているところにその情緒的な歌と視聴者の「涙が出ます」「こんな酷い被害信じらせません」という”他人事”の同情の声を聞くと、神経が逆撫でされて、震災から数年くらいは一番嫌いな歌になってしまいました。この感覚は当事者にしか分からないもので、非当事者にはとても理不尽なものであることは承知しています。日本中世界中からのシンパシーの声はありがたいものでした。でも、現在進行中で逃げている被災者としては可哀想の声の大合唱は「それどころじゃない」という気持ちと「所詮は他人事なんだな」というイラつきとで聞いていられませんでした。心を寄せていただいた世界中の人達には感謝しています。ただ、当事者のこういう矛盾に満ちた心境も理解して下さったらありがたいなと思います。

(2) 「それで正解よ!」

 渋滞は、ところどころ解消して、スムーズに流れたり、また止まったり。
白河市でコンビニがあったのでまたトイレに行くと、今度は使えるらしく、6,7人並んでいました。ホッとしました。
 3月13日に入った深夜12時頃、栃木県那須町に入りました。車は多いですがスムーズに流れていました。この流れのまま東京に向かいたかったのですが、極度の緊張と気疲れで眠気が襲ってきました。このまま運転すると危ないと判断し、また違うコンビニの駐車場に停まり、仮眠をとりました。10分ほどですが、うつらうつらしました。
 12時半頃、突然、携帯電話が鳴り、びっくりして起きました。出ると、やまなみ農場の佐藤幸子さんでした。彼女は私が川俣町で研修を受けていた「自然農自給自足学校」の先生で、研修後も子供同士がよく遊んでいたのでつながりがありました。お互い仕事が忙しく、話す機会は年数回でしたが。彼女は震災以来、文部科学省に年20ミリシーベルト許容の撤廃の交渉に行ったり、野田首相の国連演説に合わせてニューヨークの国連前で脱原発を訴えたり、経済産業省前での福島の女100人の座り込みを企画して3日間で延べ2731人の座り込みと1000人のデモを成功させたりと、「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」の世話人として活躍されました。
 なぜ幸子さんから?と思ったら、「Ikuちゃん、今どこにいるの?」と聞かれました。
 「今那須のあたりです。これから千葉の母の家に向かうところです。」と答えると、「それで正解よ!」と力強い答えが返ってきました。「『どうもなぃ』(やまなみ農場を中心とした地域通貨のグループ)のみんなも、それぞれ今日中に避難を始めたのよ。村上さんたち(飯館村の自然食レストラン『なな色の空』のオーナー)も山形に向かったのよ。」
 「どうもなぃ」のメンバーに、原発が立地している大熊町に住み反原発運動を続けてきた大賀あや子さんがいます。彼女は震災後「ハイロアクション福島原発40年実行委員会」のメンバーとして幸子さんと同じく福島の女100人の座り込みのために尽力されるなど、精力的に活動しています。大賀さんも、今の状況はもの凄く危険だということで、栃木県の親戚の家に避難されたということでした。やはり、現代社会の矛盾に疑問を持つ人たちは皆、避難したのだなと思いました。
 幸子さんに避難を肯定してもらって元気になり、再び出発しました。順調に車は流れるようになりました。2時間ほど走り、栃木県か茨城県か覚えていませんが、もう街の停電はなく、ガソリンスタンドも普通に営業していました。被災地から数時間離れると普通の日常があることに驚きを感じました。
 再び仮眠を取ろうとコンビニに停まりました。駐車場に停まっていた福島ナンバーの車の運転席に、私より若いくらいのお母さんが仮眠し、後ろに子供たちと沢山の荷物が乗っていました。「うちと同じだ!」と思い、よっぽど声をかけようか迷ったのですが、迷惑がられたら、と思い声をかけられませんでした。彼女の車は、あとで出発したとき、私の前をずっと走っていましたが、途中で違う道に行ってしまいました。実家にでも避難されたのでしょうか。
 疲労が溜まっているのでコンビニの駐車場で寝ようとしましたが、目がさえてなかなか眠れません。そのうちに、寝ていた次男が起きだしました。長男はずっと寝ていませんでした。「寝ていいよ。」と言っても、「お母さんが無事に着くまでは起きてる。」と、起きていてくれたのです。
 とうとう眠るのをあきらめ、コンビニに行ってみました。深夜2時半ころでしたが、ちょうど新聞が配達されてきたので新聞を買いました。全面、原発事故の記事でした。ラジオのニュースより詳しくどんな危険があるかが書いてあり、文字情報の大切さを改めて感じました。深刻さがより迫ってきて、「やはり避難は正解だった。」と思いました。

(3)迷子

 とうとう埼玉県春日部市まで来ました。さっきのコンビニで地図を立ち読みして予習していたので、ここで国道16号線に行かなくてはいけないことが分かっていました。標識を一生懸命見ていたのですが、都会になると標識が多く、「あれかな?どうかな?」と迷っているうちに分岐点を通りすぎてしまいました。しかも、気づいたのが大分経って、明らかに違う地名が出てきてからだったのです。戻ろうと思ったのですが、トラックを中心に交通量が多く、車線も多い広い道路だったので、なかなか曲がることができません。とうとう、東京外環自動車道の草加の入り口まで来てしまいました。大分遠くなってしまいました。わき道を見つけ、ようやく反対方向に向くことができました。
しかし、住宅街の中の道から国道に戻ろうと思うと、どんどん離れていくような気がしました。さすが都会、住宅街の中にコンビニがあったので、地図を見に入りました。ついでに携帯充電アダプターを探すと、車でも家のコンセントでも使えるというアダプターがあったので買いました。これで安心して携帯が使える、と思ったのですが、このアダプターで充電してもすぐ電池がなくなるので、あまりいい買い物ではなかったです。
 コンビニの店名から現在位置が分かったので、戻る道も分かりました。コンビニで地名と地図を見て現在地と行き先を把握するというライフハックは若い時に関東でよく歩き回った時に身に着けた知恵でした。当時はスマートフォンがなかったので。
 かなり行き過ぎていたので、1時間はロスしてしまっていたでしょう。この後も1度、道を間違えましたが、この時はすぐに戻れました。順調なら福島から千葉まで5時間で行くらしいのですが、今日は一睡もできそうにないな、と思いながら、とにかく早く着きたい一心で、あとは休まずに運転しました。
 16号線に入り、ようやく見覚えのある風景が見えてきました。6年ぶりです。懐かしく、また安堵の思いを感じながら、順調に走って行きました。「もう大丈夫だから寝なさい。」と長男に言いましたが、「いや、いい。」と決して寝ようとしませんでした。小5ながら長男として家族を守るんだ、という責任感が出てきたことにジーンときました。
 いよいよ母のいる柏市に入りました。給油もしました。ラストスパートです。5時になり空も明るくなりました。私はこの時に見た薄明るい街の光景を一生忘れないでしょう。
 3月13日午前5時すぎ、ようやく母のいる豊四季台の公団に着きました。子どもの時住んでいた家ではなく、母が離婚後一人暮らしを始めた時に移った団地で、私は6年前に一度来たきりだったので、すぐ分かるか少し不安でした。ちょっとだけ回り道をしましたが、すぐに母の所は見つかりました。やっと、肩の荷が下りました。後にこの安心がすぐ不安に変わるのですが・・・
 長い長い一夜が終わりました。



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