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好きな曲 の歌詞 の好きなところ blackout / yeti let you notice


 結論だけ先に書くと、

なにも起こらないストーリーこそが一番大きな出来事で、それがリスナーを救ってくれる

 この記事は yeti let you notice の楽曲 blackout を好きな、普段文章を書かないリスナーのヲタク語り(歌詞考察)です。

 正直、歌詞の考察とか解釈とかダサいと思ってた。けど書いてしまった。人の創作物を使って自分が気持ちよくなる最低の行為なんじゃないかと反省している。

yeti let you noticeの雑な紹介とPVと歌詞

東京を中心に活動するバンドで、メンバーは大雪男(vocal/guitar/synth)、秋好佑紀(guitar)、雑賀聖人(bass)、はやお(drums)の四人。

あたりはもう暗くなって ドアは凍てついてるみたいだ
一人でここに蹲って どれくらい経ったろう

助けはもう来なくなって 次第に両手は悴んでいって
指先を組んだ形は 祈りの姿に似ていた

眠れない夜には 消せない声がする
僕を追い詰める ブラックアウト
拭えない視線が こっちを覗いてる
見離すような目で ブラックアウト

祈りなどもう十分で 指を解いて手探りで
視線と声のする方へ どれくらい這ったろう

月は夜でも輝いて 閉じたカーテンの隙間を縫って
僕の姿を照らそうとするけど 誰の目にも映らない

暗闇の部屋で 少年と出会った
そうかあの声は 君の声か
僕に縋るように こっちへ手を伸ばす
彼は左手を 僕は右手を

互いに寄り掛かって 2人語り明かした
ずっと僕を待っていた ずっと君を待っていた
君を苦しめる奴は 全部僕が壊すよ
だってもうひとりぼっちは 絶対に嫌だから

眠れない夜が やがて明けていく
僕を許すように 碧く溶けていく
これから僕らは きっともう大丈夫
一人と一人で 一人じゃないから

https://yuki0t0ko.thebase.in/

好きな部分(というか自分勝手な読み)


 自分はこれを勝手に、何も起こっていないが、しかし何よりも重要なことが起こっている場面のことを歌っていると思い込んでいる。2サビ(MV 2:00~)で出会う「少年」もまた「僕」と思い込んだので。

 仮想の第三者視点から見た場面としては、「彼の左手」も「僕」の「右手」も同じ「僕」の両手。

 歌詞から手と少年と僕に関する描写を書き出すと以下の通り

  • 指先を組んだ形は祈りの姿に似ていた

  • 祈りなどもう十分で 指を解いて手探りで

  • 暗闇の部屋で 少年と出会った

  • 彼は左手を 僕は右手を

  • ずっと僕を待っていた ずっと君を待っていた

  • これから僕らは きっともう大丈夫

  • 一人と一人で 一人じゃないから

 自分の中の少年(より本音や感覚に近い純粋な部分)を遠ざけようとしていたことに気づき、大人になったものの身動きが取れなくなってしまっていた「僕」が、自らに向き合うことで、ちぐはぐだった「僕」がなんか前を向けるようなそんなストーリーだと思ってる。

なんでこれが好きなんだろう?

 結局のところ自分は自分に救われたいらしい。自分は救われたいし、自分は誰かを救いたい。ただ、いつか他人から差しのべられた手を取って幸せになれるって信じて待ってるだけの勇気(?)覚悟(?)はない。ってことは、自分で自分を救いたいんだ。と。で、その部分をこの曲に突かれている。

他の作品だったりでのイマイチ救われ(掬われ)きれない部分

 創作のストーリーとかって大層な事件が起こったりしていたりするけど、そんな事件自分の人生には悪い意味で起こらない。
 めっちゃ面白い映画見た後に、「あれ?俺の日常って何にも起こらなくね?クソじゃね?」ってなってしまうあのチクショー感。
 自分にとっては逃避先になるだけで、現実に引き戻されたらおしまいだった。

 じゃあ自己啓発本でも読んで救われる?いや、あの手のものは再現性ないまんまその自覚もなしに書かれていて、実際のところは「俺は〜〜俺は〜〜」っていうマウントかインチキ宗教にしか思えなくて萎えてる。

俺だけを救ってくれるものでしか、俺は救われないんだわ。


 自分は将来の夢とかなかったけどなんとなく人の役に立ちたいとか言ってた。割とある年代の若者には普遍的な感覚なんじゃないかと思う。でも自分をまず幸せにできなきゃ仕方ないし、それができない人が本当に人を救えるのかって言われるとなんかそれではいけない気がする。
 
 この辺りの話は自分の中でモヤっていた部分で、宮台真司の終わりなき日常をいかに生きるかみたいな話に通ずると思う。ただ、「じゃあどうしろって言うんだよ……」みたいな感じで、なんかどうしていいかよくわからなくなってた。

 西尾維新は物語シリーズで忍野メメに「ひとは一人で勝手に助かるだけ。誰かが、誰かを助けるなんてことはできない。」って言わせてた。人を救えないっていう諦観だと思ってた。

 「救われたいけど救われない」「救いたいけど救えない」っていう気持ちが自分の中でちぐはぐになっていて、要するにできないことばっかりに目が向いてた。


他の作品にできなかったことをblackoutはしてくれた

 自分はblackoutを「お前はお前を救えるよ」っていうエールとして聞いている。それだけでなんか動ける気がしてきている。

 blackoutを聞いて何にも起こっていない場面を思い浮かべて、でもその場面が自分を救ってくれてる。
 そりゃ好きになるでしょ。
 自分に必要だったのはこれだったんだっていう風に。

 そして何より、何も起こっていないものって退屈になると思うんだけど、面白い作品になってる。



 奇跡か?


あとがき (自分用の逃げ道・言い訳・反省)

 ライブ観に行くとめっちゃ気分が上がって自分も何か作りたくなるけど、毎回毎回ただただなんにもうまくいかない。もういっそ駄文になるのを覚悟で書いてみる。やけっぱち。

 せっかくだし(というかおそらくそうでないとできないので)、自分が一番気に入っているblackoutで。

 個々のフレーズが素晴らしいが、いちいちそれらの修辞に触れていては作品を台無しにしてしまう。自分にとって大事なところだけ書いた。

 どうしても言い訳しないと書けないし、なんか回りくどくしか書けないことには目をつぶっていただきたい。

 本当はただ好きなだけ。こういう理由があったから好きになったというわけではない。

 作者の意図とはズレて読めるってことは、ただの伝言ゲームじゃなくて、作品が聞き手にストーリーを喚起してるってこと。作品としての強度がある。いい作品をズレた解釈をしてしまうのは仕方がない。

 でも大学・大学院での設計課題の講評が作品の幅を拡げていくあの感じは好きだった。あれにはなれなくても、せめてあれに寄っていてくれと願っている。

 公開する踏ん切りがつかないので3日で消そうと思って公開する。(消えてなかったらそれはそれでオッケー。)

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