双子発覚から出産までの記録。24wで入院、34w5dで出産。

体外受精での妊娠から、切迫早産での入院、出産までの記録です。双子ということもあり1年間の育休をとり、専業主婦の妻と共に2人で子育てに専念しています。

8w ー 双子発覚。不妊治療からの妊娠

 妊活を始めたのは28歳ごろでした。最初はタイミングを合わせれば子供はできるだろうと考えていたものの、なかなか恵まれず不妊治療を進めました。

 私は航空会社でパイロットをしています。噂では、宇宙線をよく浴びるから子種が弱いだとか、そんな眉唾ものの話も本気で心配したりもしました。ただ有り難かったのは、有給休暇が取りやすい仕事ということでした。私たちはシフト勤務のため、実は休暇を取ることのハードルが低いのです。そのため不妊治療の通院やタイミング法など、妊活に合わせて仕事の都合は柔軟につけることができました。

  そして3年ほどの治療の末、体外受精で妊娠しました。3年の間には二度の流産を経験していたため、この妊娠でも検診では毎回祈るような気持ちでした。週に1回のペースで検診のたびにストレスがかかるのはなかなかキツいものがありました。同じ経験をした方なら、味わったことがあるかと思います。

 検診でエコーをあてて、心臓の動きがわかるまでの数秒は何時間にも感じられました。エコーの角度によって心臓が見えないとしばらく沈黙がおとずれ、そのときは口の中が乾くほどの緊張でした。

 このときも、休暇が取りやすかったことはとても助けになりました。検診は毎回妻と2人で通院することができ、不安と緊張を分かち合うことができました。 

 そんな検診3回目、心臓が動いていたことに安堵したときに先生が「あれっ」とつぶやきました。私たちは二人ともドキっとしました。そして先生は「2人いる。私はひとつしか戻してないのにな。」と続けました。

 体外受精ではハッチングと呼ばれる処置をおこなうことがあります。これは受精卵の膜の一部に穴をあけるもので、この操作でほんの少し双子の可能性が上がるようです。とはいえとても稀なことに驚きが先に訪れ、少し遅れて喜びが湧き上がってきました。

 双子だったらいいなぁと願っていた節はありました。同世代の友人はすでに2人目を産んでいる家庭も多く、私たち夫婦も兄弟がいる家庭で育ったためでしょうか。もっとも、とにかく1人でも無事妊娠したいとの思いは強く、双子を望むことはおこがましく思い、お互いあまり口には出していませんでした。
 双子とわかってからは、「実は双子だったらいいなと思ってたんだ」とか、「双子を授かる夢まで見たことがある」などと、今まで話していなかったエピソードを楽しく語り合いました。

 この日から、双子を妊娠するとはどういうことか、出産時のリスクは、そして育てる大変さは、と、双子に関する情報を集めはじめました。

 2人を育てるには、私が育休を取ることも必要なのではと考え始めました。私の会社では、パイロットは10週間程度の育休を取る者が多く、私も元々育休を取ろうと思っていました。しかし双子では10週間では足りないと考えました。育休をめいっぱい取るならどれくらいになるだろうと、ぼんやり考えはじめたのもこの頃でした。

10w ー 大病院へ転院・車で30分の通院

 通っていた不妊治療クリニックは産婦人科を併設しているものの、双子には早産のリスクを始め様々な難しさがあるため、大病院に移る必要があるとのことでした。県内随一の規模と設備を誇る病院を紹介され、最初の受診に向かいました。

 病室はつい最近リフォームされていて、NICUもまもなくリニューアルオープンというタイミングでした。先生も信頼感のある方で、とても良い病院だと思いました。

 12週の検査では3Dエコーも撮影していただきました。AとBという記号で表された二人を、Aさく、Bさくと呼び始めました。そして13週、お腹はすこしずつ大きくなり、妻はもしかしたら胎動を感じたかもしれないとのこと。

 不妊治療をしているときは、見るものすべてを素直に受け取れない精神状態が続きました。特にショッピングモールなどでは、かなり心に突き刺さる感情を感じました。しかしエコーで動く我が子を眺める回数が増えるにつれ、街の見え方は少しずつもとに戻り、アカチャンホンポの店内で幸福感すら感じられるようになってきました。

 妻のつわりも強く、これは双子だからなのだろうかと、そんなことを考えながら、日々を過ごしておりました。

24w ー 切迫早産の診断・突然の入院

 妊娠10週から24週まで、妻がつわりに苦しんでいる中、夫の私からは世の中がキラキラと輝いて見えていました。夜間の仕事中の操縦席で、双子座の方角から流れ星が2つ流れるのを見て感動したり、令和元年生まれになりそうな子どもたちに羨ましさを感じたりと、日常のいろいろな出来事に子供のことを重ねては、気の抜けた笑顔を浮かべていました。つわりが軽いタイミングを狙って妻と外出する機会も増え、マタニティライフの幸せに浸っておりました。

 出産前最後の旅行に沖縄でも行こうかと思い、出発前日に検診の予約を入れました。状態が安定していることを確認してもらおうとおもったのです。その検診の日、告げられたのは思わぬことでした。「子宮頸長が20mmを切っています。いますぐ入院が必要かもしれません。追加で検査を行います。」いわゆる切迫早産です。そう言われた我々は最初は半信半疑で、可能性の話を言っているだけだと思いました。再検査をすれば「沖縄旅行はやめて家にいてください」といった程度の話なんだろうと思っていました。

 しかし再検査の結果も変わらず、妻はそのまま入院しました。家は沖縄旅行の準備が少し進めてあるだけで、入院などまったく予想していなかった我々は、本当に準備ゼロで入院生活に突入しました。

 妻は病室に運ばれてゆきました。私は入院に必要なものを取りに1人で家にもどり、電気をつけるまえの薄暗い室内を見回し、しばらく妻がもどってこないという現実をあらためて突きつけられて悲しみがこみ上げ、呆然と必要なものをトランクに詰め込みました。お腹が大きくなったとき寝やすくなるようにと買った抱き枕や、読んでいる途中だった本なども持って、再び病院に戻りました。

 この日、妻は誕生日でした。検診せずに沖縄に行っていたら、どんな結果になっていたかわかりません。きっとこの入院は、無事に生まれてくるためにお腹の双子がくれた誕生日プレゼントなんだよ。そんなふうに無理矢理ポジティブなことを言い合い、動揺・寂しさ・焦燥・種々の感情が渦巻く心をなんとか抑えました。入院したら病院食となり、それ以外の食事をとってはいけないのですが、誕生日ということで看護師さんに無理をお願いして、特別にケーキを食べさせてもらったりもしました。

 家のことで心配をかけては行けないと、まずはプラスチックゴミを出しました。

34w ー 入院生活

 誕生日の突然の入院以来、病院に通い洗濯をし炭酸水を買い届け新聞や本など暇を潰せるものを考えるという日々を送っていました。

 妻は34週で出産するまで、10週間、2ヶ月ちょっと入院していました。いつ産まれてもおかしくないとまで言われた切迫早産でしたが、しっかり34週まで子供を育ててくれた妻と妻の子宮には、感謝してもしきれません。お産のあとに胎盤を見せてもらいましたが、よく頑張ったなと、ねぎらいの言葉で送り出したい気持ちになりました。

  切迫早産では、どれくらい切迫しているかで安静度が変わってくるようですが、妻の場合は病棟内フリーとよばれる安静度で、基本はベッドの上。トイレとシャワーは自分で立って行って良いが、病棟の外には出られない、というものでした。売店も庭も自分ではいけません。これはなかなか辛そうでした。

 友人たちもたくさん見舞いにきてくれました。手芸のセットや漫画など、ただ寝ているだけの生活にアクセントを加えてくれるお見舞いは、とても助かりました。

 ある日、状態がわりと安定しているので、車椅子を押して売店まで行っても良いと言われました。車椅子を押して病棟を出た途端に、なぜか涙が出てきました。このまま連れて帰りたい。そう思ったのだと思います。意味不明なタイミングで泣いているのもかっこ悪いので、悟られないように売店で買い物をして病室に帰りました。

 妻は、ウテメリンやマグセントといった薬を点滴していました。24週で子宮頸長が17mmで即入院。そこから毎日、胎児の心拍や張りのモニターを1日2回。子宮の内診をほぼ1日1回。子宮頸長は20mmを超える日もあり、10mmを切る日もありました。全体としては、入院期間を通して短くなる傾向にありました。

 一時、張りも止まってその他の検査の数値も安定しているからと、点滴が取れることも有りました。このまま安定していたら一時帰宅もあり得ると、妻もそれをひとつの希望として心を保っていたのですが、妻は10週間の入院の間一度も家に帰ることはできませんでした。点滴が外れていたのはほんの数日でしたが、それだけでずいぶん動きやすそうで、笑顔が多かったように思います。

 入院後半では妊娠糖尿病も併発し、病院食は6分割食となりました。朝昼晩の3食はおかずと主食のついた通常の食事を半量ほどにしたもので、その間に分割食を取るのですが、これはパンやクラッカーにジャムやチーズのついた、とてもシンプルなものでした。この分割食はバラエティに乏しく、妻はいつも浮かない顔をしていました。

 病院の面会にも、パイロットという仕事はとても助かりました。泊まりの仕事もあるのでまったく面会に行けない日もあるのですが、出社時間退社時間もバラバラなので、午後からの仕事のときは午前中にゆっくり病院に寄れ、仕事が早く終わった日は夕方からゆっくり病院に寄れました。定期的に会議などもありますが定時で上がれるのでその日もまた帰りに病院に寄れて、結果的にはほぼ毎日のように面会に行くことができました。

 おかげさまで、面会の日はゆっくりとした時間を過ごすことができました。この時間に、子供の名前を考えたり、家の模様替えを考えたりと、いろいろな話をすることができました。

34w5d ー 出産。経膣分娩、出生体重1972g/1900g

 破水から3時間後に第一子分娩。15分後に第二子分娩。

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