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「あいたくて ききたくて 旅にでる」読書感想

50年にわたって東北を訪れ、民話を聴き集めてきた民話採訪者の小野和子さんの旅日記と実際に集めた民話が収められた本。
人の記憶と記録への尊敬と敬愛のこもった一冊です。

■書籍情報

【タイトル】あいたくてききたくて旅にでる
【著者】小野和子
【出版社】PUMPQUAKES
【出版年】2019年12月21日初版
【ページ数】368ページ
【ISBN】978-4-600-00315-9 C0095

■ざっくり感想

・民話と現実

学生時代に基礎教養レベルとはいえ民俗調査をかじった割には、私は時代が近い民話や昔話に対して嫌悪感すら抱いてきました。
それは登場人物や社会・舞台背景におけるモラルの低さ、倫理観の欠如、人権意識の無さ、あまりにも理不尽な出来事のオンパレードで、理解はしていても許容し難いストレスと憤りを感じるからです。
特に戦争に関わるような話だと、平和な時代にのうのうと命を消費していることを責められているような気分がして、非常に苦しい思いをするのでできれば避けたいと思い続けてきました。

何より生来の他人に対する無関心と真心の無さを突きつけられるような気がしてどうにもたまらなくなってしまうので、可能な限り敬遠しています。

そんな不遜な態度でもって読み始め、どうせまた寓話や故事を使って説教くさいまとめに辿り着くだろうなどと斜に構えていたのですが、これがまた全くのお門違いでした。

本著で紹介される民話はいわゆる「むかしむかし、おじいさんとおばあさんが……」のお話ばかりではなくて、生きた昔話が中心です。
それは一体どういうものかというと、実際のところ、それは田舎の生活文化の記録と言っても良いものたちです。
嫁入り先で起きたこと、戦時下における家族との縁、代々家門で語り継がれてきた教え。
民話とは、つまり人々の営みの記録です。

そして、私はそんな小さな記録を読みながら、何度も何度も泣きました。

こんなにも死が身近な時代があったこと。
誰もがそれぞれに当たり前の権利が認められていなかったこと。
一緒に生きる動物を所有物として扱うことが当たり前だったこと。
想像を遥かに超える理不尽がまかり通ってしまっていたこと。
田舎の生活が、これほどの閉塞感と寂寞に包まれていること。

私の民話や昔話に対して抱いている感情に変化はありません。変わらずむかつくし、気分が悪いし、腹立たしい。

でも、そんな時代にそんな環境で生きた人たちの日々が確かにそこにあったことを改めて見つめることができました。
それは物語じゃない、誰かの人生です。
つかみもオチも無い。ただのエピソードの断片でしかない。
口さがない言い方をすれば、ほとんどは見ず知らずの爺さん婆さんの身の上話であって、要は愚痴と恨みつらみを根底に抱えた思い出話です。

でもそこに詰まった人々の暮らしや感情を、小野さんは愛して、集めてきた。そしてそれを民話として大切に慈しんでいる。
その優しい目線の持ち方を教えていただいたような気がします。

・視点を見定めること

特に面白いと思ったのは「第7話 エゾと呼ばれた人たち」の章。
歴史は勝者の記録というのは手垢がつきまくった表現だけれど、実際のところ、力が無いと記録を残すのはほぼ不可能です。
なぜかというと、視点のイニシアチブをとれないからです。

平安時代、坂上田村麻呂という強い武人がいました。
当時の東北地方には蝦夷(エゾ)と呼ばれる異民族が住んでいて、大和朝廷はその討伐を田村麻呂に命じ、そして田村麻呂は見事野蛮な異民族を打ち払って未開の地を平定してみせたのでした、というのが「一般的な歴史」です。

これこそまさに勝者の記録だと思います。
(決して朝廷批判だとか、田村麻呂が悪いだとかいうことを言いたい訳では無いです。念のため。)

でも、当時東北地方に住んでいたいわゆる蝦夷の人たちから見たら、朝廷側こそが異民族ですよね。
大体にして、文化が劣っていたなんていうのは朝廷側が自分たちの文化こそ上だと勝手に決めて言っていることです。
文化に優劣をつけるなんていうのは基本的には非常にナンセンスだと思います。

とにもかくにも、蝦夷が異民族なんていうのは、一方の視点だけが歴史として残された結果です。

普通に考えて、どんなに立派なお題目を掲げていようとも、攻め込まれた側が良い気持ちでいるはずがないのに、なぜ田村麻呂の礼賛ばかりが後世に残っているのだろう。
なぜ先住していた側が賊扱いされて討伐されることが歴史における当然の流れなんだろう。
それは侵略とは違うのだろうかと思ってしまうのだけれど、当時は誰も蝦夷側に加勢しなかったのだろうか?

この章が面白いのは、そんな一般的な歴史書や研究書には載っていない、人から人へと語られたが故に残った「敗者側の視点」を持った話が見つかったということです。

残念ながらただ口承で残された話には既に広く認知されてしまった一般的な歴史をひっくり返すほどの力はありません。
でも確かにそこには異なる視点も存在していたんだという、至極当前のことを証明しています。それで十分です。

民話も歴史も、それが誰の、どういう視点なのかというのは非常に重要な要素です。
人が綴る限り、フィクションであれノンフィクションであれ、必ずある一つの「視点」を持っています。その視点を見失っていると、その物語の本質を捉えることはできません。

何かクリエイティブに関わる活動をしている人にとって、それが誰の目によって形にされたものか、あるいは仮想の視点をどう設定するかを意識することの必要性を突きつけられました。

■まとめ

エッセイ集に近いと思い込んでいたら、思った以上の厚みでギョッとしつつ、その装丁のこだわりに小さく息を吐きました。

胸が苦しい、心が痛むようなエピソードも多く出てきます。
ある程度自由に自分の人生をコントロールできている現状のありがたみをつくづく感じたりなどもしました。
そしてやっぱり、恵まれた自分の生育環境を責められているような、苦々しい思いも抱きました。
それでも私はこの本に出会えてよかったと思えています。

研究者では無いからこその仕事を感じられる、情熱の一冊です。


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