ペルーでの日々の記録

いつもと変わらない「今日」を過ごすはずだったけれど

任地244日目。月曜日。

日曜夜11時半帰宅のマドリーナやその前の朝のマラソン。満身創痍で疲れ果てた身体、でも今日も何とかがんばりました!

って、そうやって書くつもりだった月曜日の日記。

実は数日前、任地でお世話になった人、私にとって大切な人が亡くなりました。

ツイッターでいいねしてくれた方、見守ってくれた方、ありがとうございました。

今は全てがどうでもよくなるくらい、何もする気が起きません。


今日の朝8時にオフィスについて、いつもどおりパソコンを起動し、よし、今日と明日で教育関係の資料をつくろう!と思っていました。

同僚が彼知ってるよね?と写真を見せてきて、

「あうん、Jさんだね」
というと不思議そうな顔。

私もなぜ彼の写真を急に見せられたのか、わからなかった。
『知らないの? 彼、亡くなったみたいなの』

そこで初めて彼の訃報を知りました。


彼は先生であり環境系のローカルNGOを率いてもいました。
私の友人であり、活動の協力者であり、そして人生の先輩でした。

4月の末に任地タンボグランデに来て、数ヶ月間、何をしていいかわからなかった。どうにかオフィスをでたくてもコネクションもない、土地勘もない、バイクも乗れない。そんな私を発見して声をかけてくれたのが彼でした。

文字通り、本当に本当に親切にしてくれて、いろいろな学校に連れて行ってくれました。彼がやっているNGOの話も、私が理解するまで説明してくれました。

全然スペイン語が話せない私にもリスペクトをもって接してくれました。私の話を最後まで聞いてくれる数少ない友人の一人でした。

約束も時間も守る彼、真面目で一生懸命で真摯な対応をする人でした。だからとても頼もしかったし、彼がこの町を今後も引っ張っていってくれるだろうと思っていました。


この町には彼がいる。
彼の存在は私の希望でした。頼もしかった。
そんな人、この町にいないんです、本当に。かけがえのない人でした。

なにかにか悩んでも、彼がいる。
その彼の存在はどれだけ私にファイトをくれたか。
彼がいる、そのことが私の元気の一部でした。彼は本当に、私の希望でした。

彼の訃報を聞いた時、今までの全てがフラッシュバックしました。全部がきれいな思い出でした。彼はそれほど私によくしてくれた。いやな思いはひとつもすることがなかった。


彼は2日前の土曜日の夕方に、事故で亡くなりました。40代半ばでした。
急いでいろんな情報をチェックして、せめて葬儀に参加できないかと、いろいろあたってみると、彼のFacebookページに葬儀について書いてあり、ちょうど8時から10時とのことで、急いで家に帰り喪服を着て、彼の家に向かいました。
沢山の人が彼の家にあつまり、最後にお別れをしました。
そのまま棺はお墓に運ばれ、こちらでは土葬なのでそのまま棺が土の中に入りました。

同僚のおかげでその訃報を事前に知れて葬儀に参加でき、見届けられたので少し受け入れられた気がします。


それでもこの日はなにもすることができなくて、泣きはらした体は全てのエネルギーを失い、涙を流しすぎて1日トイレに行かなくても大丈夫なくらい。放心状態は今でも続いています。元気にならなくちゃね。

こういうの、重すぎて誰かに共有するには気が引けます。誰かに連絡をしたら、彼らは返事に困ってしまう。だからツイッターとか、こういうnoteの存在は、とてもありがたいです。
行き場のない気持ちを整理させてくれる。


土曜日と日曜日、私は珍しく忙しくしていて、いろんなイベントに顔を出していました。WhatsAppという連絡手段には各友人があげるストーリー(24時間で消えるポスト)があるのですが、日曜日に珍しく彼のストーリーがあることに気付いてはいました。

その時は気付かなかったけれど月曜日彼の葬儀の後、家に帰って改めてそのストーリーを見ると、彼の友人が彼のアカウントを使って彼がダンスをする映像や写真が投稿されていました。彼の訃報を意味するものでした。


夕方家に帰って放心状態で携帯を手に取ると、亡くなったはずの彼からメッセージが。

え??

と思い、メッセージを開くと彼の奥さんから、彼の埋葬についての連絡でした。

彼からメッセージが来たと知ったとき、一瞬でも実は彼は生きているんじゃ…!と、そんな風に思うくらい、まだ彼の死を受け入れられていない自分に気がつきました。ちょうど数時間前、埋葬まで、見守ったのにね。


彼との過去のメッセージのやりとりが目に入り、ちょうど金曜日に彼から集まりの誘いが入っていたことを思い出しました。

金曜日は、マドリーナで別の集落に行く予定があり、断ったのを覚えています。でも30分だけなら、顔を出せたかもしれない、、それが彼に会えたはずの最後の機会だったのに。そうやって後悔って生まれていくんだなと。


彼には感謝の気持ちが尽きません。彼には本当に救われました。でも、それをちゃんと伝えられたかと思うとちゃんとは伝えられなかった。

2週間前の私の誕生日、Facebookで彼からメッセージをもらいました。その時感謝の気持ちと、これからも一緒に働けるのを楽しみに思う気持ちを伝えました。彼に届いているといいのだけれど。その可能性が今の私にとっての救いです。

そうやって、過去のちょっとしたやり取りを思い出し、行き場のない思いを消化させるしかなくて、直接会ってもっと思いを伝えたかったという後悔は尽きることがありません。


彼にはまだ10代の息子がいました。お父さんもお母さんもご健在です。彼を失った家族の悲しみは計り知れない。
数度一緒に働いただけの異邦人は黙って見守っていればいいものの、なぜかここまで涙が止まらないとは。取り乱してしまって、周りに心配をかけるのも申し訳ないです。

小さい息子もいる、たくさんのプロジェクトを進行していた。彼が一番やりきれないんじゃないかと思うと、私にとってはそれが何よりもつらいです。

彼自身が、彼の人生を幸せに思うものであったなら、本当にそれは救いです。
楽しいと思った人生であったなら、悲しみの中の笑顔で見送れる。


彼とは、これから一緒に活動をしていくつもりで、活動計画書にも報告書にも教育のことやローカルNGOを巻き込んだ活動のことを書いていました。
1月になったら連絡して進めていこうと思っていた矢先でした。
今日笑顔の人が、明日もそこで笑顔でいてくれるかなんて、わからないですよね。

私のいつかの最終報告会に、彼を呼びたいと思っていました。最終報告会は活動にかかわった人に、2年間の自分の活動について帰国前に報告するものなのですが、
私は彼に来てほしいと思っていました。彼にその場でも感謝を伝える気持ちでいました。


タンボグランデにとってもかけがえのない人でした。彼のやっていることは本当に未来があったし素晴らしかった。彼の意思を引き継ぐ人が現れてくれたら彼も喜んでくれるかもしれないですね。

私に出来ることは、なんだろう。
教育分野の活動を含め、今はとてもモチベーションが下がっています。


残された者としてしっかり歩んでいかないといけないと思いつつ、しっかり食事を取る気にもなれない。1日1日を生きるのが、必死。

むなしいです。


名ばかりかもしれなくても国際協力に従事する身として、彼のようなコミュニティのために自発的にも活動をする存在を突然なくすということがどういうことなのか、

そういう意味でもむなしいです。


本当は、陰気くさいのはいやなんです。ごめんなさいこんな記事。

大切な人にかわりないけど、毎日一緒にいたわけじゃないし会った回数でいえば5回くらいなのに、私以上に近い関係の人はこの町にたくさんいるのに、どうして私自身、こんなになにも手につかないくらい悲しいんだろう。不思議なんです。それくらい大きい存在だったのだと、今しみじみ感じています。
日本ではどうやって乗り越えたんだっけ?いや、このような近い人の突然の死はまだ経験がなかったかもしれない。



読んで陰気くさい気持ちにさせてしまったらごめんなさい、同情もうれしいけれど、この記事は心の整理もあるのであまり気になさらないでください。ツイッター等やnoteでのみなさんの楽しい日常を見ると、そういうのが、少しずつ日々を進めてくれて、私の心も晴らしてくれます。
いつもありがとうございます。


世の中は、クリスマスですね。
うじうじしていないで私もみんなに心配かけないよう、強く過ごします。

1人でいると辛くなるけれど友達といると気がまぎれる。ありがたいことに友人宅でこの後遅めのお昼を食べて、そのあとミサに参加して、そのあとホストファミリーと24時に夜ご飯を食べることになっています。

こちらの真夏のクリスマス、全然実感わかないですが、クリスマスしてきます。

みなさんも、大切な人と、素敵な時間を過ごしてくださいね(*^^*)
感謝の気持ちを伝えるのも、忘れずに。

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